2021年1月1日  牛根性・モウ根性     黎明の富士に始まる初暦   ひろし

2021年1月1日  牛根性・モウ根性     黎明の富士に始まる初暦   ひろし

 新しき年の始めに…、と書き始めて、ふと思うのですが、考えてみると、何が新しいのか、昨日も今日も、そして明日も、同じ毎日が続いて行くだけの事であり、それを人が作った暦で『新年』と押し付けられても、新しくも何とも無い…とは思いますが、1日の始まりは、お天道様が昇る処から始まって、その日を無事過ごさせて頂き、そのお天道様が、必ず沈む事によって、とりあえず1日の終わりを教えられる訳です。

 それがなければ、それこそ、ひとりの人間が眠る事無く、ず~っと起き続け…働かされるとなると、これは、たまらない。日が昇り、日が沈むと言う、大きな自然の摂理の中に日々生かされていると言うお陰を感じ、その日々の積み重ねの先にある365日と言う1年の括りは、生きている限り、前に向かって歩いて行く為の一里塚の様なものか…。

しばしば、引用されますが、時代変わっても、今の私共に思いが伝わって来る、一休禅師の狂歌と、高浜虚子の俳句が思い出されます。

  門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし   一休
  去年こぞ今年ことし貫く棒の如きもの  虚子

 何はともあれ、新しい年を迎え、明けましておめでとうございます。
昨年は、本当に、コロナに振り回された1年でしたが、今年は、何とか早くこれを乗り越えて、平穏な日常が戻って来る事を望むばかりです。
 昔、若い人達が、「あけましておめでとうございます」を「あけおめ」と、つづめて使って、その言葉が一時とびかった事があったのも…遠い昔の話になりますが、定着しなかった様で…。 私は、昔、逢う人ごとに「あけましておめでとうございます」と言うお決まりの挨拶に疲れ…「あけましておめでとうございます」と挨拶された方へ、その人の気を引こうと、「あけたら…閉めてください」と返して、相手の冷たいリアクションを、ひとり楽しんでいた事もありました。
 ところで、今年は丑年。今では「子・丑・寅…」の、十二支を言えない若者も多くなっている様でもあり、丑年だからどうと言うものではありませんが、この十二支の干支が、毎年変わるので、変わり映えのしない新年が「今年は丑年かぁ…。」と、何となく、心新たに迎える一年の始まりを意識させられるようでもあります。
 只、干支は社会生活に関係ないので、すぐに、今年の干支が何だったか忘れてしまって、「今年の干支は何でしたかねぇ。」と聞かれて、えと・・だけに?…。」と、答えに窮したりして…。

 余談ですが、昔々、街角の易者の、「丑年生まれの人は~、辛抱強く、根気よく、言葉少なく、信用もあり、スローに過ぎるが玉にキズなり。牛根性、モウ根性、テコでも動かないのが丑年生まれの人~」という口上を思い出す私は、やはり、「古いヤツ…ですなぁ~」 

それにしても大変な正月になったもんで、色々、自粛要請に従ったコロナ禍の正月ではありますが、考えてみますと、正月も時代と共に姿を変えて来ました。
 昭和21年(1946年)生まれの私が子供の頃は、戦後の貧しい時代でしたから、日々の食事も本当に貧しいもので、ご馳走を食べるのは、盆と正月くらいなものでした。
 ですから、正月は、おふくろが作った質素なおせちでしたが、それは、非日常の、晴れの大ご馳走…。のちに、それを経験しているお年寄り…は、「今頃は、毎日、盆と正月が来た様なご馳走を食うとる」と言っていました。また、正月の3日、肉の少ないスキヤキでしたが、『スキヤキ』が出た時には、飛び上らんばかりのご馳走でした。

 又、正月がレジャー化し始めたのは、のちの高度成長期からだった様な…。それまでは、家か近場で、静かに過ごす正月で、たまに、1月3日に映画に連れて行ってもらった記憶があります。

 ともかくも、今年は、コロナを意識しての不自由な正月ではありますが、ふと『寝正月』という言葉を思い出しました。思い返してみると、昔の新年は、自らをリセットして、心新たに「1年の計は、元旦にあり!」と、年ごとに、再出発を心掛けようとする正月でもあったような。しかし、時代変わって、長らくレジャー化し、慌ただしく賑やかな正月に慣れてきましたので、ここで「寝正月」と言うと、懐かしく古めかしい正月スタイルの様にも感じる処です。 「地獄極楽は心にあり」…心の持ち方ひとつ…心の持ちようで、古典的な?『寝正月』もまた、至福の新年。佳き一年のはじめとしたいものです。 「1年の計は、元旦にあり!」何か懐かしい言葉、と思う方は、いらっしゃいませんか。今や「1年の計は…簡単である!?」
酔余の句です。

    酒あらば鬼に金棒寝正月    ひろし
    父母も猫も祖父母も寝正月   ひろし
    朝酒ののちは至福の寝正月   ひろし (笑)
 ※「食べてすぐ寝ると牛になるよ~(笑)」と、子供の頃、よく言われませんでしたか?
 丑年で思い出しましたが、こんな狂歌もあったような…。

   この世をばしと思えばつらけれどと思えば食うてもみたし


  ニュース
●『日刊ゲンダイ』の紙面で、私の冤罪事件が、今のところ予定ですが、1月9日(土)と、翌週1月16日(土)、前・後2回にわたって記事になる予定です。(ひょっとすると、少し後になるかも知れませんが)

●私の冤罪を、記事で支援して下さった『冤罪File』、しばらく店頭に出てなくて、心配していましたが、昨年の年末に、本屋さんで、よく調べて頂きましたところ、1月末に、次号が出る予定と分かりました。ペンの力を期待しています


最後になりますが、新年の私の年賀状を掲載いたします。

今年は、人類の叡智を集め、何としてもコロナを乗り越え、平穏な世界が戻って欲しいと祈るばかりです。

今年は、人類の叡智を集め、何としてもコロナを乗り越え、平穏な世界が戻って欲しいと祈るばかりです。

2020年12月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020年12月1日   出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…

2020年12月1日   出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…

 11月26日(木)に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」に多くの方のご参加ありがとうございました。コロナ対策で一席ずつ空けてのソーシャルディスタンスで、会場は、ほぼ満席の80人近くの皆さんで埋まりました。

 久保先生は世界の有罪率等の、例を挙げ、とても分かりやすく、問題点を指摘されました。「…起訴されると、99.9%有罪と言う数字は、考えても恐ろしい事…この数字は、たくさんの冤罪被害者を生み出しているという事でもありましょうか、日本の警察・司法のあり方は、国際的にもその問題点を指摘されていて…」等と言う様なお話をされました。

 先生のお話の後、私にも少し話をと言う段取りでしたので、お礼の気持ちなどを話そうと思っておりましたら、本番では、思っていたより、かなり早い時間にマイクを受ける事になって、本当のところ、内心少し慌てましたが、あれでもと思って、持参していた冤罪関係の本、数冊を、とっさに手にして登壇しました。

 まず、元厚生労働省の冤罪被害者、村木厚子さんの「私は負けない」の中より、「あってはならないフロッピー改ざんの事や、事実と異なる供述調書が沢山作られていた問題…。罪を認めない人が、いつまでも身柄拘束されるのは問題であり、それが、本人と家族の生活を、どれだけ破壊する事なのか、検察と裁判所は、本当に理解しているんでしょうか。」等を紹介しました。

 次は、弘中惇一郎先生の著書「無罪請負人」から、シャラップ発言を紹介。2013年5月、スイスのジュネーブで開かれた国連拷問禁止委員会の席上、委員が、「日本の刑事司法は中世に近い。」と言って「取り調べに弁護人の立ち合いがないと、誤った自白が行なわれるのではないか。自白に頼りすぎる取り調べは、中世のなごりだ。日本の刑事手続きを国際水準に合わせる必要がある。」と指摘すると、日本の人権人道大使は、「この分野で日本は世界一の人権先進国だ。」と反論した。これに、会場から苦笑、失笑が漏れると、日本の大使は、「何がおかしい。笑うな。シャラップ‼シャラップ‼」と叫んで、その場にいた参加者をあきれさせた。(このシーンは、私もテレビニュースで見て、驚きました。)更に、委員会は、日本への勧告として代用監獄(留置場)、自白強要、独房への監禁、死刑などの問題をあげた。…日本の刑事司法の現実は、前近代的であり、国際基準に照らしても相当遅れている事は確かである…。」を紹介。

 そして、日本で多くの冤罪事件に取り組んでこられた、弁護士の今村核先生の「冤罪と裁判・冤罪弁護士が語る真実」より、有罪率99.9%について「職業裁判官にとって、被告人に判決を言い渡すことは日常のことであり、週のうち2日ぐらいは、判決を言い渡している。そのほとんどは有罪判決であり、最高裁が毎年発表する司法統計年表によれば、全起訴人員のうち、有罪判決を言い渡される被告人は約99.9%である。無罪は1000人にひとりだ。総じて言えば、職業裁判官は、『有罪への流れ作業』に慣れ親しんでおり、検察官の起訴内容を、検察官が請求した証拠により、そのまま認定するのが彼らの日常となっている。」他、問題ある裁きの実態などの所を紹介しました。

 そして、久保先生へのお礼と、私が、冤罪被害者になって、絶望と孤独の中にある時、私の無実を信じて、「ひとごとではない。あすは我が身。許されない!」と声をかけて下さり、支援して下さった多くの皆様にお礼を申し上げました。

 久保先生が、最後の所で、日本の人質司法はよくないので、「起訴前保釈制度」を作ってほしい事と、「弁護人の取り調べ立会制度」を認めてほしい事を話されました。
 私も冤罪を生みださない為に役立つ制度だと思います。

 思いますに、私が、この冤罪を通して勉強させて頂いた事の一つに、薄れて行く、人と人との絆がいかに大切なものであるかと言う事を身をもって知りました。

    悲を耐へて小さき仕合わせ野紺菊のこんぎく      ひろし

    人肌の恋し鳩居のを開く         ひろし

 ところで、前号で、広島県警南警察署が南区出汐町(広島県立広島工業高等学校、広島県立広島皆実高等学校の入り口あたり)に引っ越すらしいと言う事で、南署での四畳半独房日記を書き始めましたが、移転先に当たる出汐町の警察官舎の、解体作業が思っていたより早く、既に終わって更地にされましたので、独房日記の続きは、次号にして、今日は、南警察署が引っ越す出汐町あたりの事について思いが昂り、書かせて頂きます。

 出汐町は、今は市街地の真っ只中にある町となっていますが、出る汐と書いて、出汐と言う町名にされたのは…、これは広島の旧市街地のほとんどが、干拓に次ぐ干拓で、歴史は遡って、毛利、福島正則、特に江戸時代250年の長い浅野藩時代には、大規模な海の干拓が進められ、更に明治には、宇品地域の広大な埋め立てによって出来たと言う歴史があります。

 そもそも、出汐町のすぐそばにある比治山も、古来より、広島湾内にある島の1つでしたが、江戸時代中頃までには埋め立てられ、広島城下と陸続きになったものです。
 話は少し横道に入りますが、その比治山の南麓では、昭和7年(1932年)、軍の連隊施設の工事中に、縄文時代の石器、土器、貝塚が出土して発掘調査が行われたと言う記録が残っており、戦後、昭和25年(1950年)比治山貝塚として、県の史跡に指定されて世に知られる処となりました。実は、私も若いころ、居酒屋の広島の地雀、物知りのお年寄り達から、「比治山の周囲には、他にも何ケ所かの貝塚らしきものがあった」と聞いております。また、この比治山は、広島城から見ると、虎が臥(ふ)せている様にも見えるので、臥虎山(がこざん)と親しみを込めて呼ばれてもおりました。
 (※私の作詞、佐伯金次郎作曲、新宅未奈子唄の「比治山慕情」を、カラオケで、聴くだけでも、かけて頂くと、わずかですが、私に、数円の印税が入ります。)

 話は本筋に戻ります。つまり、比治山は、江戸時代半ば迄には、広島城下と陸続きになったものですが、埋め立てられても、その当時も、すぐそばには、京橋川が広島湾へと流れ込んでいたと思います。今の進徳女子高校や県立広島工業高校、県立広島皆実高校あたりは、川に向けても、寄す潮、引く潮が身近な地であったので、それにちなんで、出汐町と言う地名が付けられたのだろうと思いますが、語源を見ると、潮は、しおの干満で、本来は朝方に起こる干満の変化、また、高くなる方のしお。朝潮。満ち潮。
 対して汐は、しおの干満で、本来は夕方に起こる変化、また、低くなる方のしお。引き汐。夕汐。例→汐干狩り。月の出汐。出汐(いでしお、でしお)は、月の出と共にさしてくる、満ちてくる汐。おもんばかってみると、夕日が美しく沈む、有難い西方浄土の方角が望める位置にある、昔、海だったところにちなんで、出汐…色々、その昔がしのばれる、町の名です。

 広島県警南警察署は、その出汐町に移転するのですが、そのすぐ南側には、近年、被爆建物として保存の声が高まっている、赤レンガの旧陸軍被服支廠が、4棟ほど残っております。今でこそ、宅地に囲まれておりますが、私が子供のころは、(半世紀以上も昔の話になりますが…)4棟残された建物の南側は、見渡す限りの蓮田(はすだ、レンコン田)で、建物の西側も、蓮田か畑ではなかったかと思います。あの辺りは、人家の無い寂しい所で、私共、子供の遊び場でもありましたが、西側の3棟のうち、建物と建物の間の広場に、結構大きくて深そうな防火用水だったのか?水槽があって、そこで、魚釣りもしたり、(ヒブナか、鯉が育っているらしくて、私は釣り上げる事はありませんでしたが、なにしろ、終戦後の、物も無い、お金も無い、子供もひもじい時代でしたから、それを釣り上げ、どこかへ売りに行って、小遣い銭にしていた年長坊主もいたと聞いていました。)

 あの辺りで日暮れまで遊んだりもしていましたが、その事を親に話したら、強い口調で、「あの辺りは、ひとけが無い所だから、子供が遊んではいけない。」と、諭されました。のちに、安全上の問題と衛生面の事からでしょう、取り壊されて、埋められました。

 話は、戻りますが、私は、随分前から、あの建造物は、被爆建物でもありますが、それ以前の歴史を語る歴史的建造物として保存する価値があるのではないかと思っていましたし、機会ある毎に、人にも、その事を話しておりました。あの赤レンガ造りの建物群は、大正2年(1913年)に完成した物で、現存する最も古い鉄筋コンクリート造りの建物として評価されていい建築物ではないかと思っています。

 明治以降の日本は、欧米の文明を取り入れて近代化を進めた時代であり、レンガは、文明開化を象徴する物として扱われ、その時代を物語るのが、この洋風の、赤レンガ造りの建造物であるとも思います。そもそも、赤レンガ1つをとっても、明治の初めは、日本で製造する技術はなく、イギリスからの輸入に頼っていた様ですが、日本人も、その技術を習得して、国産レンガが作られる様になりました。国産レンガの産地のひとつに、蛸壺造りの技術があった広島の安芸津が全国に名を馳せました。被服支廠のレンガは純国産の一級品、安芸津産の物ではないか?と思いますが、近代化遺産としても、明治、大正、昭和の歴史を物語る歴史的建造物群でもあるので、保存する価値がある物だと思う訳です。

 最後に、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く、幅広い通学路の中ほどに、昔は3本だけ残されていましたが、今は、2本となった大きな楠が、堂々と枝葉を拡げています。この2本の楠は、実は、あそこには、被爆の前まで、あの辺りの新開地の守り神だったのでしょう、皆実神社、伊勢神宮の分祠があって、その参道にあったものの様です。残された2本の楠の大樹は、大正、戦前の昭和、そして被爆の惨状を目のあたりにした歴史の語り部でもあり、この地の戦後の復興を見守ってきた証人とも言えましょう。今は被爆樹の一つにもなっています。

 今年は被服支廠保存の声が高まりましたが、今年の夏の、私の拙句です。

    物言はぬ声八月の被服支廠    ひろし

 今年の冬が穏やかであってくれればと願います。

    十二月雑踏に我が孤独の灯    ひろし

 皆様におかれましても、お身体くれぐれもお大事になさって下さい。

                              煙石 博

2020年11月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020.11.1 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)

2020年11月1日 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)

 前回のブログで、11月に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」のパンフレット・参加申し込み書をご案内しましたが、その3回目の講座【11/26(木)18:00~19:30】で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」がある事をお知らせしました。これにつきましては、久保先生が、私の冤罪のケースを素材にお話されるという事のご報告と、お時間が許す方は、ご参加下されば…と言う思いで、パンフレットをご案内させて頂いたものでしたが、ブログをお読みになって「参加したいのですが、都合付かず申し訳ありません。」という丁寧なご返事を頂いた方もあり、余計な心のご負担をおかけし、申し訳ありませんでした。
 ところで、もう一つ前回のブログの最後に、「四畳半独房日記より」として、広島県警南警察署の留置場の(広島市南区丹那町)、私が入れられた独居房13号…の事について綴りましたが、この余白部分で、もう少し書かせて頂きます。

 さて、留置場は、入ってまず一番手前が1号、次が2号で、確か、3・4が無くて、13号、その隣が、雑居房の5号、6号、その奥が7号であったのか…そこには、上半身?入れ墨を入れた方が(入浴の時などで、チラと拝見しました。)入っていました。なにしろ、留置場内をじっくり確認して歩く訳にもいかず、しかも、私自身が大変な状態にある訳ですから、そんな事に気を留める余裕もありませんで…その様な部屋割ではなかったか…と思います。私が入れられたのは独房の13号でしたが、私より前に冤罪被害に遭われた元厚生労働省の村木厚子さんも、何故か、同じ13号だったと知りました。

 私の居た独房13号を、四畳半と表現しましたが、これは、一番奥の、タタミ1畳分のスペースの半畳分が、古典的な和式便所になっていて、残りの半畳分は、便所の鉄扉の開閉の為に必要なスペースで、板の間になっていました。その和式トイレの部分は、目の荒いセメントが塗られていて、ナメクジでも這って居そうな湿気の多い、薄気味悪い一角で、鉄格子の向こうの刑務官から私が見える様に、上半身部分はガラス張りで、その下は、下半身だけ隠れる程の壁になっていました。
 そのトイレ部分のこちらは、ビニル畳(ネチャネチャとする感じのもの)を横に3枚並べてある寝起きのスペースですが、鉄格子の出入り口の所は、タタミ一畳くらいのスペースがあって、その三分の一くらいが、食事や水などを差し入れる為の板張りになっていました。つまり、寝起きのスペースは、大雑把に長方形の薄暗い四畳半という感じでした。この、天井の高いコンクリート打ち抜きの様な冷たい鉄格子の部屋は、夜には、ゴーゴーと吹きぬけて行く風の音が聞こえ、不気味でもありました。ここは海の方から吹いてくる風の道…の様です。10月はそうでもなかったのですが、私の誕生日の11月2日頃には、夜が更けるとシンシンと冷えて、さらに不安が募りました。

 私は、広島生まれの広島育ち、この土地で生まれ育ったので、丹那たんなに南署が出来る前、その辺りから、風光明媚な遠浅の入り江の様な海が広がっていた事を知っています。
 そこは、私の子供の頃の遊び場でもありましたが、魚、海苔、かに、シャコ、わかめ、あさり等の豊かな漁場でもあり、のちに廃線となりましたが、国鉄(JR)宇品線ルートの途中にありました。

 広島駅の0番線ホームを発車した汽車は(SLが走り、後にガソリンカーも走って…)大洲、段原を抜け、出汐町の今の広大病院の前を通り、宇品へ向かっていましたが、今の広大病院がある所は、戦前、軍の兵器支廠があった所で、終戦後は、長らく広島県庁が移転して来ていました。県庁の入口に、木造の結構大きな上大河(かみおおこう)駅があり、その駅前には、広電のボンネットバスが、くるりと回ってやって来るハイカラなロータリーがあって、暮らしの匂いのする賑やかな町がありました。
 県庁が現在の基町に移転した後は、広大病院が出来て今に至っています。

 宇品線は、その上大河(かみおおこう)駅から、さらに南の、私の住んで居る町の下大河(しもおおこう)駅、そして、小さな無人駅の丹那…終点の宇品へと延びていました。

 この丹那沖の豊かな干潟は、釣り場でもあり、春には、宇品線に乗って潮干狩りにやって来る人で賑わい、夏には海水浴も出来た所です。
 その後、丹那橋(たんなばし)から遥か沖までの入り江は埋め立てられ、マツダの宇品工場が出来ますが、その扇形の広い埋め立て地の一丁目一番地に当たる様な所に、広島県警南警察署が出来ました。そこは埋め立て地の丹那橋のたもと辺りになります。

 そんな訳で、私の子供の頃の、愉しく青い夢を育んだ思い出のエリアで、よもや、晩年になって、こんな目に遭わされ様とは…悔しくも、切ない涙が…溢れます。無罪を勝ち取った後、今でも、南警察署に近づくのも嫌で、大変な苦痛を覚え、あの留置場での28日間の忌まわしい記憶を拭い去る事は出来ません。
 実は、以前、新聞で読みましたが、その南警察署が、数年後、南区出汐町の広島県立工業高校そばの、県警官舎跡に移転するそうで、既に官舎の取り壊しが進められています。…次回へ続く…。

■■以下は、留置場で書いた覚え書き、日記より■■
2012.10.16(火)、今日は、AM10時より、ポリグラフ検査(嘘発見器の様なもの)を受けた。検査中、少し開けた窓から秋風が吹き込み、しばらく外の空気を吸う事が出来て、ちょっぴり、ほっとする。秋晴れ。私は、お金を盗って居ないので、ポリグラフ検査に異常が出る訳は無いと…自信を持っている。担当官から「結果は、取り調べが全て終わるまで明らかに出来ない。」と言われた。(今思えば、これも、とても妙な話ではあります。)

    秋の空うそ偽りの無き高さ   ひろし
     10.16(火)の夜に記した句 これは、近作の拙句ですが…

    青春の日々は遥かな青林檎   ひろし

 寒さに向かいますが、くれぐれもお身体ご大切になさって下さい。
                                         煙石 博

2020年10月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020.10.11 この日は、私が、8年前、窃盗犯にデッチ上げられた忌まわしい日…です。

2020年10月11日   この日は、私が、8年前、窃盗犯にデッチ上げられた忌まわしい日…です。

 私にとっては、ついこの間の事の様な8年前(2012年)の10月11日(木)の朝、確たる証拠も無いのに、9月24日(月)に、銀行で、客が置き忘れたとするお金を盗ったと決めつけられ、何も悪いことをしていない私が、突然やって来た二人の刑事に逮捕されて、窃盗犯に仕立て上げられた屈辱の日です。
 この時の模様は、前回の10月1日のブログでも綴りました が、それを、是非もう一度、読んで頂き、信じられない様な真実をご理解頂きたいと思います。そこでは、8年前に不当逮捕された時の真実の一端を綴りましたが、その後、4年5ヶ月に及ぶ、長く苦しい冤罪との闘いの中で、これは、私だけの事ではなく、私の様な冤罪に巻き込まれて、人生を失い、悔し涙を流し、泣き寝入りをされる方々が、後を絶たない事になると感じて憂慮し、そんな事がない事を願って、改めて、ブログに書き綴りました。

 あの日の事は、今でも鮮明に記憶しています。定年後、私の講演料などの収入の振込み先を、家の近くの広島銀行大河支店にしておりましたので、たびたび、当行に出入りしておりましたが、事件があったとする9月24日(月)の朝に、預けていた500万円を引き出しに行きました。(これは、別の銀行から振り込んでもらっていたお金で、前の週の金曜日に、銀行の担当者に電話して、「9月24日(月)の朝9時過ぎに、500万円をおろしに行きますので、用意しておいて下さい。」と、お願いしていたものです。その9月24日(月)の朝9時過ぎに銀行に行った時、この事件にあいました。

 それから半月以上も後の、10月11日(木)の朝、突然やって来た二人の刑事は、初めから 私を犯人と決めつけて、銀行で、客が置き忘れたとするお金を盗った、と言うのです。しかも、防犯カメラの映像に、それが映っているというので、私には全く身に覚えの無い事であり、「それじゃあ、ここで、その映像を、パソコンか、ポラロイド写真にしてでも見せて下さい。」とお願いするも、刑事は「見せる訳にはいかない。」の一点張り。(裁判になって明らかになった映像には、当然、お金を盗っている事を証明する確たる映像はなかったので、見せられなかった訳です。)
 しかも、私はお金を盗っていませんから、「何のお金か。」と聞くと、「年寄りから集めた金だ。」と言うので…私には何のことだか全くわかりませんでした。裁判になって、初めて知る事になったのは、そのお金は、客が支払う予定で持って来たという66,600円が入った?とする市・県民税、そして、その納付書(セップ)が入った封筒でした。刑事が作った、とんでもない犯行ストーリーは、私がその封筒を盗って、7歩か8歩、歩いたところで、 66,600円の現金だけを抜き取り、誰の物かがわかる証拠となる、市・県民税の納付書(セップ)だけを残した封筒を持って、また歩いて戻り、わざわざ、元の記帳台の全く同じ位置に戻したというものです。そんなバカな…あり得ない犯行ストーリーです。そんな事を絶対にしていない私は、しばらく待たされたのち、払い出しの500万円を受け取って何事も無く帰宅しました。
 また、逮捕しに来た刑事に、「私が、お金をいくら盗ったと言うのですか?」と聞くと、「言う訳にはいかない。」と言って、答えてくれませんでした。
 無くなったお金がいくらだったのかを知るのは、逮捕されて広島県警南警察署の留置場に入れられて1週間位後でしょうか、心身共に疲労困憊してヘトヘトになった頃始まった取り調べではない、自白誘導の為の、取り調べと称する拷問の様な時間の合間に、「ポリグラフ」での(うそ発見器だと思いますが)チェックを受けた時、その時の検査官から、金額は66,600円だった事を知らされました。ポリグラフチェックの結果は、私はお金をとっていないのですから、異常が出る訳が無く、私に有利に働くと信じていました。しかし、結果は知らされませんでした。

 また、後に裁判になって、持ったと決めつけられた封筒に、私の指紋が無かった事も明らかにされましたが、これには妙な話がありました。それは、取り調べ中に、若い刑事が、(客が置き忘れたとする)「封筒の指紋の検出が出来ました。」といって、ビニル袋に包まれた封筒を、私と、取り調べの刑事が向き合っている机の真ん中に、ポンと投げ置きました。その封筒には、たくさんの指紋が青く?鮮やかに浮かび上がっていました。刑事は、「薬品を使うたけぇ、こうゆう色になっとるんじゃ…」と説明しましたが、それ以上の事は話しませんでした。多くの指紋がついている封筒を見せられた私は、「その中に、私の指紋がついているんですか?」と聞くのが恐ろしくて…聞けませんでした。結局、私の指紋は検出されなかったのですが、私を自白に追い込む為の、心理作戦に利用したのです。

 改めて、10月1日の私のブログ「冤罪は人災、犯罪です。~あえて、あの日の事を…」怒り‼も、是非、再読して頂ければ…と思います。   前回10月1日のブログはコチラです。

 なぜ、罪もない私を犯人にデッチ上げたのでしょうか…、今でも全く理解できませんし、まるで犯罪の様な行為だった…としか思えません。このような事が、多くの皆様に起きないようにと願っています。
 ところで、広島弁護士会の主催で、「市民法律講座」が、11月12日(木)から毎週木曜日、5回にわたって開かれます。その3回目の11月26日(木)の講座の講師は、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生で「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」と題して、午後6時~7時30分まで話されます。
 会場は、広島市中区上八丁堀の広島弁護士会館3階大会議室です。ご都合のつく方は、ご参加いただければ幸いです。

 講座のパンフレット・参加申し込み書(PDF)はコチラです。

 多くの皆様のお陰で、最高裁、奇跡の逆転無罪を勝ちとる事が出来ました。心より御礼を申し上げます。めっきり弱くなりましたお酒も、おかげ様でおいしく頂ける様になりました。末筆ながら皆様のご健康とご多幸をお祈り致します。

    きずなとは心に沁みるぬくめ酒     ひろし

    百花みな力の限り野紺菊のこんぎく       ひろし

                                      煙石 博

2020年10月11日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020.10.1  「冤罪えんざいは人災、犯罪です。許されない‼ あえて、あの日の事を…」怒り‼

2020年10月1日  「冤罪えんざいは人災、犯罪です。許されない‼ あえて、あの日の事を…」怒り‼

 今年は、コロナ禍にあって、多くのイベントも中止され、自粛されて来ましたが、天下は、天高し…のシーズンです。しかし、私にとっては、10月は、冤罪の暗い淵に引きずり込まれた、決して忘れる事の出来ない忌まわしい月です。今のままでは、誰もが、冤罪の不幸に見舞われる怖れを危惧する処です。コロナも怖いが、冤罪も、それ以上に…怖い。

 私の時計は、2012年10月11日(木)の朝で止まったままになりました。 この日の朝9時過ぎに、家にやって来た2人の刑事(1人は、当時、広島県警本部、刑事部の警部補。もう1人は、広島南警察署、刑事課の警部補)によって、身に覚えの無い窃盗犯に…家の近くの広島銀行大河支店の狭いロビーで、客が置き忘れた?とする金を盗ったと決めつけられて、「盗った、盗らない」の2時間にわたっての、激しい遣り取りの末、盗った証拠も無ければ、逮捕状の呈示も無いまま、11時30分、自宅で逮捕されました。

 私は、何も悪い事をしていないのに、窃盗犯にでっち上げられて、今まで積み重ねて得た私の信用、信頼を、大きく傷つけられ、さらには、人との大切な絆まで壊されて、貴重な時間と、余生の為の財産も人生も失ってしまいました。

 あれから8年経っても、怒りと憤りは消え去る事はありません。
 私の冤罪の因(もと)は、刑事が作り上げた人災であり、誤認逮捕等では決して無い事は、下記の通りです。何故、こんなひどい事をしたのか、私には今でも納得できません。

 ◎「防犯カメラに金を盗んでいるところが映っている‼」「防犯カメラに証拠が残っている‼」と言って、逮捕状の呈示も無く私を逮捕したのに、防犯カメラの映像には、お金を盗っている映像はなかった。
 しかも、事件が発生したという9月24日から18日も後の、10月11日に逮捕さ れたが、お金を盗っている証拠が映っていれば、もっと早く逮捕に来れる筈。

 ◎取り調べでも、盗っている証拠があるという防犯カメラの映像を見せてくれず、机をたたいたり、押したり、威嚇・恫喝したり…盗ってもいないのに、盗った事にしろと…自白を迫るばかり。内容は全く取り調べではなかった。
 刑事は、私に手錠をかけて南署の取り調べ室に入れ、しばらくして、他の署員がいる大部屋に向かって、大声で「報道(マスコミ)は来とるかっ‼」と言ったので、「私はお金を盗っていないので、まだニュースにしないで下さい。よく調べてからにして下さい。」と懇願した。しかし、刑事は、それを無視して「マスコミはニュースを欲しがっとるんじゃ‼マスコミは、わし(私)の言うのをそのまま、たれ流すんじゃ‼」と言った。結局、取り調べもせずニュースにされた。これは私への脅迫…。

 ◎検事は、…~66,600円にイロを付けて…、キリのいいところで10万円払えば済む事です…等と、ひたすら示談を勧め、示談を断ると起訴され、28日間も勾留された。

 ◎結局、防犯カメラの映像は、示談しない事を決めたのち、10月28日に、やっと一部を見せられたが、お金を盗っている映像は無く、後に裁判になって、持ったと決めつけた封筒に、もともと、私の指紋はついていなかった事も明らかにされた。

 ◎刑事が作った、犯行ストーリーは、客が置き忘れたとする封筒を私が取り上げて、店内を7~8歩、歩いて移動した所で、中の66,600円だけを抜き盗って、市・県民税の三つ折りの納入書(セップ)だけを残した封筒を、再び7~8歩後戻りして、わざわざ、元の記帳台の、元の位置に戻したと言う、不自然過ぎるもの。
 お金を盗ろうとするのであれば、封筒ごと、密かに盗って、そのまま隠し持って家 に持ち帰るし、お金だけ抜いて、証拠になるものを、元の所に戻して帰りはしない。 しかも、置き忘れたとする封筒からお金を抜き取ろうとするのであれば、まず、封 筒を見つけたあと、封筒の中を覗き込んで、お金が入っているのを確認しなければ、 お金を盗る動機も生まれないのに、防犯カメラの映像には、勿論、そんな映像は全 く無い。

 ◎又、逮捕に来た時から、刑事は「左手で左胸のポケットに金をねじ込んだんだ‼」と、何度も言っていたのに、勾留の最後で見せられた一部の映像から、実は、着ていたシャツは、ポケットが無いシャツだった事に私が気付いた。

 その後、裁判になって、裁判官は、どこで、どう言う風にお金を盗ったかを示す事なく、「記帳台の上面に触れたのは被告人だけで、~被告人が本件封筒を窃取したという事実が強く推認される」として、私は盗った証拠も無いのに有罪にされた。信じられない。

 上記のように、筋の通らない、常識ではあり得ない犯行ストーリーを作り上げて、罪もない私を犯人に仕立て上げた刑事に対して、いつまでも怒りは収まりません。いかに、刑事のやり方が最初から無茶苦茶であったかを、お解り頂ければと思います。

 私が盗っていないと言う最高裁の無罪判決が出ましたが、考えてみると、私は、もともと封筒にも触れていないし、何も悪い事をしていない私を、何故、逮捕したのか?…しないといけなかったのか?私は絶対に犯人ではあり得ず、ある筈もない。ともかく、私は冤罪の被害者で、失ったものは大き過ぎます。

 そもそも、先祖代々住んで来た家のすぐそばの、小さな銀行支店内の狭いロビーで、多くの行員等がこちらを見ている前で、封筒から、66,600円ものお金を抜き取り、証拠となる、その封筒を、わざわざ元の位置に戻して帰るなんて事は、絶対にあり得ません。

 私の体験から申しますと、刑事の段階で真実に基づいた正しい取り組みをしていない。合理性も、科学性も無視した、誠に不誠実な対応をしている所に大きな問題があります。
 最後に、日本の司法に大きな問題がある事は、かねてより指摘されているところですが、起訴されると99.…%以上と言う有罪率は、多くの冤罪を生み続けている証でもあります。 どうも、日本の司法は、最初から、有罪に向けて作文をして行く…つじつまを合わせていくと言う事例が多く、証拠を正しく検証して、真実と正義に基づいた公正なる判断をしなければならないのに、有罪という答えを出す為に、合理性や科学性をないがしろにした、乱暴で、不公正な所が随分あると言う事も知りました。
 私のあとにも、冤罪に泣いている方が沢山いらっしゃる事を憂います。
 天高く、さわやかな10月なのに…私にとっては、忘れる事の出来ない忌まわしい10月…今回は、辛い思いの丈のブログになって仕舞いました。

 ■■以下は、四畳半独房日記より■■
 留置場に入れられ、気も動転し、孤立した混乱と不安に、眠ると殺されるのではないかと言う恐怖に震えながら、怖くて二晩は一睡も出来ませんでした。その後の日々は、うとうとしては目覚め、うとうとしては目覚めると言う、辛い夜が続きました。自白のみを迫る、取り調べではない取り調べや、地獄の毎日の中で、恥ずかしながら、朝・昼・晩の三度の食事だけが、愉しみ?…しかし、28日の勾留で3キロ瘦せていました。
私は、独居房の13号でしたが、自白を強要する為の「代用監獄」と言われる、薄暗くて、不気味な、コンクリート打ち抜きの、トイレを含めて長方形の四畳半位の部屋でした。
 この部屋には、机も無く、勿論、私物は一切持ち込めず、夜9時に、メガネと、筆記用具も没収され、翌朝7時~8時に返してくれるのですが、(夜は、薄い毛布と、一巻きのトイレットペーパーだけを与えられます。枕はありません。)そんな訳ですから、その間、筆記用具が無く、時に浮かんだ俳句は、トイレットペーパーをちぎって密かに作ったこよりで、カタカナの文字にして(看守の死角の位置に)残し、昼間、それをメモしました。

     ⊛ 「13号」と呼ばれ時雨るる鉄格子   ひろし
     ⊛ 留置場のビニル畳の秋湿り(あきじめり)   ひろし
       (毎朝、自分でビニル畳を、掃いて、雑巾がけをし、トイレ掃除もします。)
     ⊛ 房狭き掃き採るは皆木の葉髪(このはがみ)   ひろし
     ⊛ 雨水のシャバシャバと落つ秋の房   ひろし
     ⊛ 秋雨や窃盗容疑晴れぬ日々   ひろし
       (朝から秋祭りの子供神輿の声が聞こえた…)
     ⊛ 天高く地に我が疑惑はらすべく   ひろし
     ⊛ 蠅取蜘蛛(はえとりぐも)房の厠の釈迦如来   ひろし
     ⊛ 「施錠よし」と房の復唱冬隣(ふゆどなり)   ひろし

独房期間の詳細を以前掲載したものがございます。よろしければご覧ください。
各日付分をクリックして頂くと、各ブログに移動します。
 2016年11月15日分   2016年12月 1日分   2017年 1月15日分
 2017年 1月27日分   2017年 4月 3日分   2017年 4月 8日分
 2017年 4月13日分

 ご支援のお陰で冤罪を晴らす事が出来ました。皆様のご健康、ご多幸をお祈り致します。

                                煙石 博

2020年9月27日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

「新涼のネクタイかたく結びけり ひろし」

2020.9.1  「新涼しんりょうのネクタイかたく結びけり ひろし」

 「新涼しんりょう」と言うのは、8月終わりから9月のこの時期、「しのぎがたい残暑が続くうちに、或る朝の風に涼気を覚え、秋が来た事を感じる」と言うニュアンスの季語ですが、上記の句は、私が20代前半、先生から特選を頂き、褒めて頂いた嬉しい一句で、毎年、この時期に思い出される若き日の句です。

 それにしても、変わらぬコロナ不安の中で、長く自粛気味の生活が続いて来た為、皆、心底、疲れておりますが、加えて、10年分の暑さが襲ってきた様な激暑にも疲れ果てて仕舞った…8月でした。
 とにかく、この夏は、私が毎年、夏になると、よく使っておりました「夏はやっぱり…夏い(なつい)ですのぉ~」と言う冗談も、すべって仕舞うくらいの暑き日々でしたが、天気予報で、連日、耳にしたのは、「危険な暑さ」と言う言葉でした。これが、憎たらしくも、何となく納得出来そうな表現ではありました。とにかく、今年は、昨年以上に、これまで経験した事のない暑さの日々で、ヘトヘトになりました。

 炎天の影の悲鳴に身を預け   ひろし

 また、この8月は、お盆に、渡哲也さんが亡くなられた事が(享年78歳)伝えられました。私も、若い頃から憧れていたスターの1人で、今でも、「くちなしの花」をよく唄っております。 また1人、私共の戦後昭和の灯が消えた…思いです。ご冥福をお祈り致します。本当に寂しい限りです。

 出逢より別れの増へて老いの盆   ひろし

 私も終活年齢になって仕舞いましたが、下の写真は、恥ずかしながら、半世紀も昔の、私が二十歳の時の、モノクロ写真です。当時、日本全国の若者たちが「テケテケ・テケテケ」のエレキ旋風の中にあった頃、広島で活躍していたアマチュア・エレキバンド「ザ・サファーズ」の司会をしていた時の写真です。


 前列でしゃがんでいるのが私ですが、渡さんのデビューの頃のショートカット、スポーツ刈り風ヘアスタイルでした。
※当時の男のヘアスタイルは七三(広島弁でヒチ・サン。共通語でシチ・サン)分け、ケネディカット、ロングヘアー等ありましたが、私は、スポーツ刈りでした。「ブロース」とか言われたヘアスタイルらしいのですが…。 メンバーは、エレキギターとドラムで、私は楽器が出来ず、マイクの前で、ホラを吹いて…?いました。(笑)

 実は、私が初めて作詞家のまねごとをしたのが、1992年、平成4年にリリースされた、峰一矢さんの「恋未練」「恋待岬」でしたが、この時のペンネームは渡哲之進でした。このペンネームの由来は、担当していた番組「なんでもジョッキー」の中で「私は、わたり…廊下です。」「私は、不渡り…哲也です。」と、しばしば、冗談を言っておりましたので、ディレクターから「お前のペンネームは、渡哲之進ではどうだ。」と言われて、「渡哲之進」と相成ったものです。
数少ない、私のこれまでの作品で、今、カラオケに入っているのは、広島を中心に活躍していらっしゃる新宅未奈子さんの「比治山慕情」(平成6年、第12回アジア大会が広島で開催された年、1994年にリリースされたものです。アジア大会が、首都以外で行われたのは初めての事でした。)は、煙石博作詞としましたが、今年はコロナの為に、新宅さんも活動が限られ、大変です。この為、カラオケ、夜のお店でも、リクエストのかかる回数が激減しています。私は、日本作詞家協会へ、1ヵ月あたり2000円の会費を納めておりますが、1回かかると、私に数円の印税が入ります。夢の印税生活?には、とても…泣かせる話ではあります。機会がありましたら「比治山慕情」のカラオケが入っているお店に行かれた時には、リクエストをお願い致します。
 それにしても、今年は、コロナ禍に加えて、各地での大水禍、さらには、梅雨明け後は、連日、「危険な暑さ」に熱中症警戒の日々…誰もが、我が身に火をつけられた様な日々が続いているせいで、コロナや熱中症以外の事には、思いが及ばない。世の中の出来事に対しても、冷静な目や、心の余裕を失い、怒りや発言もトーンダウンしている様な気がしないでもありません。そんな世の混乱の中で、益々、えん罪に対しては、また、他人事(ひとごと)的な感じにもなっていて、えん罪への関心の高まりも、ひと頃に比べると、下がっているのではないかと思ったり、こうしている間にも、えん罪に泣く被害者がつくられているのではないか…と憂慮しています。

   秋の蚊を打つや心を鬼にして   ひろし
   鈴虫の鳴くや人恋ふ手酌酒    ひろし

 夏場の疲れが追いかけてきます。呉々も、お身体ご自愛なさってください。
                                      煙石博

2020年8月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

夏なのに、世の中まるで真冬…しかし、春の来ない冬は無い。頑張りましょう‼

2020.8.1 夏なのに、世の中まるで真冬…しかし、春の来ない冬は無い。頑張りましょう‼

 コロナウイルス終息の頼みの綱とされるワクチンの開発状況も伝えられますが、見えない敵との闘いは、まだまだ続きそうです。しかも、「第2波」かも知れない、ここ最近の感染者増加や、感染しても無症状の場合がある事と、感染者が増えるにつれて、感染経路が追えないケースも増えている事に不安をかき立てられます。そうかと言って、ただ、怖い怖いと恐れているばかりでも不安がつのり、混乱は増すばかりです。
 例えが良くありませんが、今、日本はコロナも含め、あれやこれやで、焼け付いた鉄板の上で不安と混乱の中にある様な…。特に、コロナの問題は、これは日本だけでなく、世界の多くの国々も同じ様な禍中にあるのですが…どこの国が、早く、この危機を乗り越えて行くか…。本当に、手に負えない困った疫病です。

 そんな中で、身の周りの動・植物は、人間のコロナウイルス禍は、どこ吹く風…。今年も、近所の小さな空き地に種をまいたオオマツヨイグサ(大待宵草)が育って、7月から、毎日、たくさんの花を咲き継いでいます。


 この待宵●●草は、♪♪待てど暮らせどこぬ人を、宵待●●草のやるせなさ こよいは月も出ぬそうな~♪♪という、竹久夢二作詞の「宵待草」のモチーフとなった帰化植物です。マツヨイグサは、北アメリカ原産で、幕末の黒船騒動のころ渡来し、オオマツヨイグサは明治になって日本に入り、日本中に広がったもので、一般では、待宵草、月見草として親しまれています。

    待宵の花や四弁の黄を命      ひろし
    月細りゆくに咲き継ぐ月見草    ひろし

 ところで、ここからは、話が少し飛躍して行きますが、恐れと不安と混乱の中で、これは以前から思っていた素朴な思いですが、日本では、昔から「幽霊」という存在が語られてきました。
 しかし、今では、現代の科学で合理的に検証され、その存在は、昔ばなしや、百物語、講談に残されている怪談話の世界のものとなっています。また、「幽霊の正体見たり枯れ尾花(枯すすき)」という諺もあり、さらには、「脚下を照顧せよ」という言葉もあります。…ここは慌てふためいてはいけません、冷静でありたいもの…。

    露草や脚下照顧の瑠璃るりの色    ひろし

 「悟りは脚下にあり」と言いますし、「敵を知り己を知れば百戦あやうからず」等と、思いをめぐらします。冷静に考えてみれば、見えない敵は、医学・科学の目でよくよく見なければ、そして、我々皆も、よく理解しなければ…。ここは見えない敵を、医科学的に、しっかり分析して対応する事は勿論、不安と恐怖を募らせるばかりでなく、感染の有無を、さらに充分に検査する必要を感じます。しらみつぶしに、新型コロナウイルスに感染している人をピックアップする事によって、ウイルスをつぶし、活動を弱めていく事ができないものかと思います。(費用の面や医療従事者の不足と言う事もあるかも知れませんが…。)

 しかし、このブログ原稿を書いている7月24日の今、TVが、「コロナが蔓延して、非常事態に陥ったニューヨーク市が、無料で、徹底したPCR検査体制をつくり上げて、その危機を脱し、成功している」という事を、伝えています。日本も、良い例は早く取り入れても良いと思うのですが…このあと、どうなりましょうか。
 これは、私の、さらなる願いで、不可能かもしれませんが、コロナウイルスの感染者かどうかを、瞬時に検査出来る、コストのかからぬ、簡易な「リトマス試験紙」の様なものが作れないものか…。そうすれば、見えないウイルスの不安から、かなり解放されて、日常生活を少しでも取り戻す事が出来るのではないか…と、思うこの頃です。

    冷酒ひやざけみるソーシャルディスタンス    ひろし
    コロナ禍の距離置かさるる夏寒し      ひろし

 何もかも厳しき日々、呉々もお身体ご大切になさって、お元気でいらっしゃって下さい。

                                           煙石 博

2020年7月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020年7月1日 6月を振り返って…

2020年7月1日 6月を振り返って…すでに夏バテ、コロナバテ…

 相変わらず、コロナと対う日々を強いられていますが、右を向いても左を向いても、マスク・マスクの、目だけの顔・顔・顔で、それこそ、宗教法人、大日本マスク教団でも出来たかの様な、奇妙な景色です。時に、マスクを忘れて外出すると、マスクの群れの不気味な視線を浴びて、何か後ろめたい気分になったり不安を覚えたりする時もあります。思い返せば、コロナ騒ぎの始め、普段使って来た使い捨てのマスクが店頭から消えて、日本中が大騒ぎになりました。しかし、太平洋戦争後の昭和に生まれた、ベビーブームの一期生と言いますか、(団塊世代と、異人類扱いされたものでしたが…)古い昭和生まれの私がすぐに思った事は、私共は、子供の頃から、自分のマスクを洗って何度も使うのが普通でしたから、冷静な目で受け止める事が出来、使い捨てマスクが無ければ、自分で作れば済むことなのにと思って、慌てる事もありませんでした。使い捨てのマスクを買って使う様になったのは、私共の世代にとっては最近の事で…ふと、時代を感じた事でした。

     バナナ熟れ団塊世代高齢化     ひろし

 ところで、数年前、花が咲いている鉢植えの 仙人掌サボテンを頂きましたが、その後、花を咲かす事が無く、育て方が悪いんだろうと諦めておりましたら、嬉しい事に、先月、6月10日に、一花だけ見事な花を咲かせてくれました。


      仙人掌さぼてんや心に咲ける故人あり     ひろし

 歳と共に…鬼籍に入って仕舞った知人、友人へ手を合わせる事も多くあり、私の寂しい胸の内へ何かを語りかけ、再会の喜びを交わしてくれている様な…、生きさせて頂いている事に、感謝・感謝・感謝。
 さて、このブログ原稿を書いている今日は、6月25日(木)ですが、旧暦の暦に、旧五月五日、旧端午の節句とありました。昔の様に菖蒲と蓬を括って軒に いたりしなくなりましたが、 ちまきや柏餅を食べたり、菖蒲と蓬を括って風呂に入れ、菖蒲湯を愉しむ習慣等は、辛うじて(スーパー銭湯等で)残っている様に思います。
 我が家では、菖蒲(花菖蒲では無い、香りのよいサトイモ科の植物の菖蒲)が手に入りにくいので、毎年、道端に生えている蓬を少し刈ってきて湯船に浸し、蓬風呂として昔の端午の節句の季節感を愉しんでいます。私の若い時の拙句…蓬のほのかな緑の香の中で…

     菖蒲湯の湯船たっぷりとっぷりと     ひろし

 今年は、今の暦の6月25日が、旧端午の節句でしたが、遡ってみると、今年は、過去10年間で最も遅い旧暦の端午の節句だった事を知りました。旧暦は、草木の成長の目安になる自然暦でもありますから、この旧端午の節句も、蓬や菖蒲の丈が整う頃だと言う訳です。時々、旧暦の暦で行事をチェックしてみると、私共の先人の知恵や、思いの丈が込められている事に気付き、考えさせられる事も色々ある様です。

 そんなこんなで、コロナの不安に振り回されているうち、早くも半年が過ぎてしまい、間もなく、梅雨も明ける事でしょう。ただ、梅雨の終わり頃には、送り梅雨と言われもして、激しい雨に見舞われたりする事があります。今年は、大きな水禍が出る事なく、梅雨が明けてくれる事を祈るばかりです。

     逆らはぬ ままなる風の 夏暖簾なつのれん     ひろし

 過酷な気候の折柄、おん身ご大切になさって下さい。

                                            煙石博

2020年6月27日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

コロナの事も気になりますが…銀行の防犯カメラ、1秒の空白は何…?

2020年5月30日 コロナの事も気になりますが…銀行の防犯カメラ、1秒の空白は何…?

 コロナウイルスと向き合う日々を余儀なくされる毎日が続き、色々な対策が講じられて来た中で、様々な事も見えた様な気がします。例えば、国と地方自治体の権限等のあり方も…それでいいのかどうか…。自粛の形や、経済対策…。又、心配される第2波・第3波の流行にどう備えるのか…。そして、近年、日本はオリンピックに向けて(1年延期となりましたが…)外国人観光客を当て込んで、経済面でも膨らんできた社会…それを当てにしていた業界、お店等がどうなって行くのかも心配されます。

 さらに、オリンピックが開催出来たとしても、世界中が、コロナウイルスという不安定要素を抱えてしまった中で、選手は勿論ですが、外国から多くの皆さんに来て頂けるのかどうか、そして、どうおもてなし出来るのか…。その前に、いつになれば、安心して外国人観光客を受け入れる事が出来、その対策をどうすればいいのか、どうすれば、コロナショックから立ち直れるのか、あれやこれやと憂慮される所です。

   雨粒の涙顔なる苔の花   ひろし

 そんな混乱のさなか、突然、降って湧いた、黒川検事を絡めての検察官の定年延長問題を巡る、不信一杯な話…「検察庁法改正案」は、検察OBや、一般世論の反対意見も高まり、結局、見送られましたが…。今回の事、とても良かれとは思えません。

 私は、定年過ぎて、人生の最後で冤罪と言う悲劇を体験し、「警察・司法の世界が壊れている」と言う、本当に嫌な事を身を持って知る事となりました。この体験から、他にも多くの冤罪被害が出ていて、日本の司法の有罪率99%以上と言う数字は、それを物語っていると言う事も知りました。黒川検事と検察官の定年延長を巡っての国会でのやり取りを見ているうち、広島地裁、広島高裁で、私が受けた信じられない、ひど過ぎる裁きを思い出しました。私も、そんな嫌な事は忘れたいのですが、警察・司法への不信感は拭いきれず、再び冤罪への怒りが込み上げて、やり場のない思いでいます。私が経験した警察・司法の許されない真実の一端を思い返してみます。これは、今のままだと、私だけでは無い、誰の身にも降りかかって来ると言う大問題で、絶対に、他人事(ひとごと)ではありません。
 まず、私の冤罪事件は、警察官が、善良なる一市民の私を、常識で考えても有り得ない、筋も通らない犯行ストーリーをデッチ上げて、逮捕状もなく、私を逮捕して手柄にした事から始まりました。警察官がデッチ上げた犯行ストーリーは次の通りです。

 ◎私の住んでいる町内の、いつも出入りしていた、広島銀行大河支店の狭いロビーの記帳台に、女性が置き忘れた?とする封筒を、私が盗って、数歩、歩いた場所で、中の66,600円(現金だけ)を抜き取り、そのあと、わざわざ元の記帳台まで歩いて行って、元の記帳台の同じ場所に、税金の納付書が残った封筒を戻したと言うものです。これらの事を、狭い銀行で、行員やお客さんのいる衆目の中で行ったというのです。

 ※お金を盗ろうとすれば、まず、発見した封筒を手にして中を覗いて、お金があると言う事を確認しなければ、盗ろうという動機は起きないのに、後に見せてもらった防犯カメラの映像には、勿論、そんな場面はありません。また、金を盗るのであれば、封筒ごと全部盗って帰るし、わざわざ証拠にもなる封筒を記帳台まで歩いて行って、戻して帰りません。しかも、その封筒には、私の指紋は、検出されていません。私は、その後、前もって払い出しをお願いしていた500万円を受け取って帰宅したというものです。

◎逮捕状も無く逮捕されて、広島県警南警察署の留置場に入れられましたが、取り調べは、とても取り調べと言うものでは無く、私が盗っていない事を、声がかれる程、一生懸命に説明し訴えましたが、全く耳を貸さず、刑事は「防犯カメラの映像に盗った所が映っている。証拠は沢山ある。」と、強調しながら、映像を私に見せる事なく、28日間も、留置場に入れて精神的苦痛を与え、机を叩き、威嚇して、ひたすら、盗っていないのに盗った事を強引に認めさせようと、自白を迫るばかりでした。

 ◎警察官は、初めから、盗ったお金を「左手で左胸のポケットにねじ込んだ。」としたが、銀行に着て行ったシャツは、左胸にポケットの無いシャツである事が、防犯カメラの映像で確認出来ました。結局、裁判では、盗ったお金を、どこにどうしたかについては、一切触れないで、初めから、警察官のデッチ上げたストーリーを鵜吞みに、論理矛盾を隠そうとするもので、非科学的で理屈の通らない有罪ストーリーを正しいと認め、有罪へのエスカレーターに乗せられた様な壊れたものでした。「警察・司法」の組織に自浄能力が無い事なのか…。こんな事はあってはなりません。悪い刑事の、卑劣で執拗な自白の強要に負けそうになりながら耐え、自白も、示談もしないで、裁判する事に決めた後、証拠の防犯カメラの映像の一部、数秒間の物を、数カット見せられましたが、何が何でも、自白させる(お金を盗っていない私に、盗ったと言わせる)為に、修正したのではないかと思える映像もありました。※盗った証拠も無いのに、私を犯人にデッチ上げようとした刑事、数名に、何のおとがめも無いと言うのも、納得出来ません‼

 ◎さらに、広島地検の検事には、私が盗っていない事を必死に訴えましたが、「煙石さん、お金を盗ったか盗らないかは別にして、66,600円にイロを付けて、10万円払えば済む事です。」(のちに、「きりのいいところで10万円払えば…」と、表現を変えた様にも思いますが…。)又、この検事は、「私は、何回も防犯カメラの映像を見ましたが、あなたは、お金を盗っています。」と、自信たっぷりに説明し、私には防犯カメラの映像を見せる事なく、示談を迫るばかりでした。しかも、この検事は、私に示談を迫ったあと、私の家族と接見し、家族にも、防犯カメラの映像を見せる事なく、(お金を盗っている映像は無いのに)「私は、何回も防犯カメラの映像を見ましたが、お金を盗っているのは間違いありません。」と、説明して、身振り手振りで、この様にしてお金を盗んでいますと、大ウソをついて騙し、示談する方向に誘導しました。
 ※後に、裁判になって、防犯カメラの映像を公開してもらいましたが、私がお金を盗っている確たる場面はありませんでしたから、見せなかったという事です。

◎結局、広島地裁では、防犯カメラの映像にお金を盗っている映像が無いので、封筒に私の指紋がついていないのは、「封筒に指紋がつかない事がある。」とし、「封筒があった記帳台の上面に触れたのは、被告人、煙石だけだから、煙石が、お金を盗ったと、強く推認する。」として、懲役1年執行猶予3年と言う、あり得ない有罪判決が出されました。怒り‼(※防犯カメラの映像は、後に弁護士さんが専門の鑑定会社に頼んで鑑定してもらうと、私が、封筒に触れていない事が証明されました。)

 ◎そして、広島高裁では、「防犯カメラの死角をついて金を盗った」として、地裁と同じ有罪判決。これについては、狭い銀行の、数台ある防犯カメラの、ⒶカメラからⒷカメラへ移動する間、なぜか、私の姿が映っていない1秒間があったのは確か…。しかし、専門会社が、狭い銀行内の防犯カメラを設置する時、そう言う空白は作らない様にすると思いますし、私が映っていない1秒の時間があった事に加えて、その1秒でお金を盗ったと推認された事が…腑に落ちません。しかし、1秒の空白がある映像でも、それを見ると、私は、ただ自然に歩いているだけの動作しかしておらず、この1秒に、金を盗って隠す様な仕草を推定する事は無理。とにかく、1秒では、お金を抜き盗って、隠す事は出来ません。

 話は、初めに戻りますが、コロナ問題で大変な時に提出された、黒川検事長を絡めての、検察官の定年を巡る問題は、不透明で、納得出来そうもなく…クローズアップされる形となった黒川検事長は、新聞記者と賭けマージャンをしていた事で、辞意を表明。これで幕を引く様な問題では無さそう…しかし、彼が、これまでにどんな仕事をして来たか、その一部を、新聞やTV、ネット記事で見ると…一般国民には納得し兼ねるものが幾つもあり、その大きな不信感に、冤罪の被害に遭って、人生も、多くの友人・知人を失った私も、憤りを覚える所です‼・・・いささか疲れました。マグマの様にたまっていた怒りが、又、又、爆発したもので…お許し下さい。
 最後に、新型コロナウイルスは、簡単には退治できない様で、ワクチンが出来る迄、当分、不自由な生活をしながら暮らしていかなければならないと言う事の様です。
 今はまず、コロナ対策ですが、同時に冤罪等を起こさない、司法を正す改革もお願い出来ませんでしょうか。

      憂い事あるやにバナナ湾曲す    ひろし
      フーテンの寅は昭和やバナナ買ひ  ひろし

 コロナウイルスには、まだまだ油断できず…。おん身ご大切に。共に頑張りましょう。
特筆 私の無罪判決が出た時の最高裁の裁判長、「鬼丸かおる」元最高裁判事が2020年春の叙勲で、「旭日大綬章」を受けられました。心よりお祝い申し上げます。

      旭日にかおるや富士は薫風裡(くんぷうり)  ひろし

煙石 博

2020年5月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

「朝の来ない夜は無い」 祈・コロナ終息。頑張りましょう。

2020年4月26日 「朝の来ない夜は無い」 祈・コロナ終息。頑張りましょう。

 新型コロナウイルスにすさむ世となって仕舞い、見えない敵との闘いが続きますが、そんな不安な日々の中、目に眩しい青葉若葉が、今年は、ひときわ、悔しくも、恨めしく燃え、季節は風薫る緑の五月へと…。

   コロナ禍(か)の大逆境の風若葉   ひろし

 このウイルスは、米粒の5万分の1という、電子顕微鏡でやっと確認できる程の超微粒子だそうで、質(たち)の悪い所が様々あり、飛沫や、付着した物から感染を拡げると言う、非常に強くて、厄介なマイクロウイルスだそうです。 あるお医者さんは、皮肉を込めて「とても、よく出来たウイルスです。」と表現していました。
 さらに、何も症状の無い無症状感染者が、知らないうちにウイルスを飛散させると言う大変厄介な敵で、大都市では(4月24日現在)市中感染が、かなり拡がっています。
 このウイルスは、自分が生きる為に、人から人へと取り付いて、急速に疫病が拡がって行くと言う、大変怖いものです。
 以下は、4月19日(日)のTVの報道番組で見た事で… 爆発的感染となったニューヨークで働く日本人男性医師(49歳)が、自らコロナに感染して、頭痛とものすごい倦怠感の末、限界を越えた様な熱と痛みと頭痛を伴って…死線をさ迷い、紙一重でこの世に生還した、思い返したくない恐怖体験として、日本の皆さんの為にと、まだ闘病やつれそのままの表情で話していらっしゃいました。この先生は、日本の私共に対して、

 ①酸素投与も受けていない軽症者だったのに…。
 ②「8割が軽症」と言う説明は、軽いカゼの様に思わせてしまうところがあって、余り良くないと思う。
 ③日本は大丈夫だろうと思っている方も、非常に沢山いらっしゃるんじゃないかと思いますが、本当に、経済も度外視して、みんなで家に閉じこもらないと、大変な事になる…もう既になって来ているのかもしれない…
(4月19日現在)

と言う、日本の私共に対して、鬼気迫る指摘をし、警鐘を鳴らしていらっしゃいました。

 今、日本は国難状況にありますが、私共が出来る事は、感染を拡げない為に努めて家を出ない事が、誰かの命を救う事にもなると言う事でしょう。 早く光が見えないものか…。
 これは、私が以前から思っていた、個人的で希望的な思いですが、日本は、アメリカやヨーロッパの国々には無い、雨の多い国で、これがコロナウイルスの狼藉を少しは弱めてくれるかも知れないと思ったりします。
 雨が降れば、飛散、浮遊して長く漂っているウイルスも、雨に洗われ地面に落ちて流されます。地面に落ちたウイルスが靴の底に付着したとしても、欧米では、外から帰って、靴をはいたまま部屋で生活しますから、靴底についたウイルスが部屋の中にまで入ってきますが、日本では、玄関で靴を脱いで家に上がりますので、そこでウイルスを防げます。そして、日本人は衛生観念が高く、清潔な生活習慣が日常的に身に着いていますし、挨拶も、握手ではなく、お辞儀です。欧米の様に、日常、ハグやフレンチキスをしませんし、とにかくしばらく、おとなしく謹んでいれば、何とか、おさまってくれるのではないか…。
 コロナ感染が、欧米の様なオーバーシュートしない事を切に願うばかりです。(4月24日現在)ここは、とに角、我慢と辛抱で乗り切りたいものです。

 そして、雨が味方をしてくれるかも知れないと言う私の思いは、特に、5月半ばを過ぎると、走り梅雨があって、6月は梅雨で雨の季節。(今年の梅雨は、恵みの雨をもたらす、優しい梅雨であってくれる事を祈ります。)
 私はコロナ籠りで、自粛生活。毎晩、家飲みでアルコール消毒していますが、先日のお昼、ウオーキング中に、チョウチョが2匹、縺(もつ)れる様に(濃厚接触?)飛んでいるのを、 足を止めて、しばらく見て居ました。

   コロナ禍(か)を知るや知らずや蝶(ちょう)縺(もつ)る   ひろし

 これは、4月の始め、ある方に電話をした時、話されたのですが「悔しいけど、今年はもう無かった事にしようと思った方がいい。改めて来年頑張ろうという気持ちでやりましょう。」と言われた事に何となく納得。 今年は、一点集中。コロナと向き合って、敵はコロナ‼ と気持ちを切り替えて、他の事は仕様がない…無理せずに生きた方が、気分が楽になる様な…。『生姜(しょうが)なければ茗荷(みょうが)で済ませ』仕様がなくても、何とかしましょう。知恵を出せば、何とかなるさ‼
   このコロナウイルスとの闘いが、早く良い方向に…終息してくれる事を祈ります。皆様も、ご用心され、呉々も、お身体ご自愛なさって下さい。          煙石 博

2020年4月26日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien