2024.4.1「3月10日は最高裁無罪判決の日…あれから7年」独房記㉕二度目の人生地獄。

2024.4.1「3月10日は最高裁無罪判決の日…あれから7年」独房記㉕二度目の人生地獄。

 齢と共に、月日の流れが早い事に、益々、無常観を深めている私ですが、身に覚えの無い濡れ衣をきせられ、冤罪に巻き込まれた私にとって、何年経っても、あの出来事は許されない事であり、悔しくて、その憤りは、埋み火(うずみび)の様に消す事の出来ないものである事を認識するところです。
 そんな想いの中で、私の事件は既に昔の話になっている訳ですが、…躊躇ちゅうちょしながらブログを書いています。

 事件があったとされた(とにかく、警察官のとんでもない、でっち上げによるものでした)2012年9月24日と、お金を盗っていないのに、確たる証拠も無いのに不当逮捕された2012年10月11日。そして、4年5ヵ月の苦難の法廷闘争の末、無罪を勝ち取れた2017年3月10日は、私にとって、それぞれ、消し去る事の出来ない日…です。
 そんな訳で、毎年やって来る9月24日、10月11日、3月10日。つまり毎年、嫌な思いで迎える9月、10月、そして、冤罪を晴らす事が出来た3月も、言ってみれば、お金を盗っていない訳で、もともと無罪で当たり前なんですから、複雑な思いで、迎えているのが真実、本音のところです。

 そんな、今や、ただの私事として迎えた今年の3月10日に、若い頃から深いご縁もあり、お世話になって来た方から、メールと写真が届きました。それが「あれから7年」とあった下の写真ですが、今や懐かしく、心癒される?ワンシーンでしょうか…。

ありがとうございました。

 最高裁判所前の、本当にホッとした私の表情が改めて見てとれます。そして、99.9%有罪と言う日本の司法の厚い壁に立ち向かって、奇跡と言われる最高裁の無罪判決を勝ち取った弁護士の久保豊年先生の、大きな荷物を下ろされた様な安堵の表情…。さらに、私の中学校時代からの親友で、これまで、色々な方のお世話をして、人助けして来られた佐伯さんも、私のえん罪に心を痛め、「煙石博の無罪を勝ちとる会」の会長を引き受けてくれ、支援して下さいましたが、その佐伯さんの大役を終えた安堵の表情が、今では懐かしく…私も、元気を出さなければと、励まされます。多くの皆様のご支援、本当にありがとうご座居ました。お陰様で、何とか、元気で頑張っております。

     雪冤せつえんの落花は眩し惜しみなく     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録㉕「人生2度生きた地獄の5年」
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)

「疑わしきは罰せず」とは、犯罪を行なったと言う事が証明されなければ、有罪を言い渡してはいけないと言う法律上の原則ですが、私の体験してきた真実は、疑わしくも無い私を、犯人に仕立て上げ様とする、警察官、検察官、裁判官の全く理不尽で、非情な行為に泣かされたものでした。

 広島南警察署の留置場の中で、限られた時間だけ与えられた筆記用具に、憤りを込めて必死に書き殴った様な、当時のメモがありますが、その最後の日のワンカットです。

 とにもかくにも、有無を言わさず、ジェットコースターに乗せられ、あっと言う間に、この世の果ての非日常の世界に突き落とされた留置場の独居房であった。人は皆、喜怒哀楽を纏って生きているが、ここでは、涙の種にも、まだなれない、路頭に迷った悲しみと、「蜘蛛の糸」の薄暗い地獄の底で、悲愴な怒りがドロドロしているだけの、刻が止まった日々が過ぎて行った。その毎日は、晴れようと、曇ろうと、雨が降ろうと、風が吹こうと、この世から一切置き去りにされた、人間ではない自分があるのみの、28日間であった。

 取り敢えず、保釈金を払って、何とかこの世の娑婆(しゃば)に戻って来る事は出来たものの、心は晴れない。心は重い。これから冤罪と言う濡れ衣を、薄皮を剥がす如く、一枚一枚剥がしていかなければならない。その大変さすら想像がつかない。気の遠くなる闘いが始まるようだ。』

と、ありました。それから5年近くにわたる、家族もろとも、多くの皆さんを巻き込んでの苦節の日々が続きました。

 冤罪は、凶器なき殺人。私は65歳の時、この冤罪に突き落とされましたが、思えば、その時、一度命を失い、その後5年は、2度目の人生を生きた地獄の5年だった様な…。

     混迷の痛ましき世を散る桜     ひろし

 ところで、日本は恵みの雨の多い国。早春から春が往くまで、結構雨が降ります。
 ・春の霖雨(りんう・幾日か天気がぐずつき、降り続く春雨)
 ・木の芽起こしの雨(このめおこしの雨・木の芽が芽立つ頃の春雨)
 ・菜種梅雨(なたねづゆ・3月下旬から4月にかけてでしょう 菜の花が盛りの頃に降り続く春雨)
 ・催花雨(さいかう・桜が咲き出す頃に振る春雨)
 ・茅花流し(つばなながし・チガヤは、葉に先立って花穂を伸ばし白い穂になるが、それを散らす様な雨・戦後昭和の貧しき幼年時代に、このチガヤの若い穂を摘んで口に入れ、ガムの様な感触を愉しんだ思い出あり)
 ・筍梅雨(たけのこづゆ・筍が生える時期の雨模様、この雨で、筍が良く育つ)

     顔洗ふ猫葉桜の下を得て     ひろし

そして、来る5月は、好天に恵まれ、薫風・風薫る月。青葉、若葉に若いエネルギーを分けてもらいたいものです。
 何はともあれ、異常気象の影響かどうか、何となく、気分がシャキッとしない様な(春愁・しゅんしゅう?)のせいかも…)。 お身体ご自愛下さい。    煙石 博

2024年3月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2024.3.1「佳き花の季節を…」。四畳半独房日記・備忘録㉔ 「憤りの遣(や)り場もない。」

2024.3.1「佳き花の季節を…」。四畳半独房日記・備忘録㉔ 「憤りの遣(や)り場もない。」

 今年も早いもので、もう、弥生3月になりました。昔は、よく、「1月去(い)ぬる、2月逃げる、3月去(さ)ると言いますが、今年も、もう…」等と使われていた表現…。最近は、余り耳にしなくなった様で、戦後昭和時代までの、レトロな表現のひとつになりましょうか。

 それにしても、近年は、良くない事が相次ぎ、「諸行無常」の非情なるものを身に沁みて感じているところですが、事件や事故等も、人の世で起きる事が、これまで以上の悲しみや怒りを感じ、許しがたいものが多い様に思います。

 また、日本の気候をみても、春夏秋冬の季節の移ろいも尋常ではなく、異常過ぎて、意地悪く、じゅんならん(備後福山弁で、手に負えない、乱暴な。じゅんならん子→悪ガキ)、儘ならないのも、私共の深層心理に、何らかの影響を及ぼしていなければいいが、と思ったりする所です。

 何はともあれ、暖冬気味だった、こちら広島の冬でしたが、春本番に向かう2月、3月…思い出す事に、私のおふくろが、「寒い寒い思ぅたら、お水取りじゃねぇ。水取りが終らんにゃぁ、ぬくうはならんよ」と言っていた言葉を思い出します。(暖かいお水取りの年もありますが、だいたい、お水取りの頃、最後の寒さらしきものがやって来る様です。)

その昔から、関西に春を告げると言われてきた、奈良東大寺二月堂の修二会の行事、クライマックスの、おたいまつと、御水取りの行事は、3月12日夜です。

 この稿を書いている今、今年はどうだかわかりませんが、例年、その頃までに、寒さの程度はあれ、最後の寒さがやって来て、その後は、一気に春本番に向かう事が多かった様に思います。
 これから、平穏な、佳き花の季節となる事を心より願います。

     西行の春死なむ頃花を酌む     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録㉔ 「憤りの遣(や)り場もない。」
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)

 本格的な春に向けて、心なごむ時期ではありますが、世の中を見ていると、昔の平和な時代と比べると、何か随分違った、騒然とした空気を感じるのは、神経質な私の杞憂である事を祈りますが、マスコミが時折り伝える、えん罪?なのかどうか、そんな事件にかかわる様なニュースは、今でも目に付き、私と同じ苦しみの被疑者では無いかと、心配しています。
 と言いますも、弱き身の私が体験した、とんでもない警察官や、広島地裁の検事の言葉が脳裏に焼き付いているからです。
 その一部を書きますと、刑事の取り調べは、取り調べではなく、もともと、私が盗った証拠も無いのに、防犯カメラの映像に、お金を盗ったところが映っていると、(実際には、お金を盗っている映像は無いのに)ウソを言って、自白を強要するばかりでした。記憶とメモに残している断片的な言葉を少し書いてみます。

「裁判をしても、日本の司法は、99%有罪になるんだ!!
「死ぬまで裁判をする事になるんじゃ!!。裁判をして、人生を棒に振った者が、よけぇ(たくさん)おるんじゃ。
「あんたは(お前は)、絶対に有罪!!刑務所行きじゃ。
「あんたが盗んでいないと言うのは、あんたの勝手。自由。言うだけ言えぇ~。なんぼぅ言うても(いくら言っても)、お前は金をとっとる。」
マスコミが報道したけぇ、世間は、あんた(お前)を、皆、犯人じゃ思うとるんじゃ!!」
「お前は、言う事がコロコロ変わる。お前は頭がおかしゅー(おかしく)なっとるんじゃないの?」
「ウソばかり言うとると、偽証罪になって、罪が重いのを知っとるかっ!!」…
(私は、真実、お金を盗っていないのですから、決してウソは言えません。恐ろしい示談誘導に脅え(おびえ)ながら必死で抵抗しました。)

 今振り返ってみても、刑事は、最初から、辻褄もあわない犯罪ストーリーを強引につくり上げておいて、何が何でも犯人にしてしまおうと言う…全く取り調べではなく、終始一貫、私を犯人に仕立て上げようとする、強引で恐ろしいものでした。

 私は、天地神明に誓って、絶対にお金を盗っていないのに…自白を強要されるばかりでした。
 証拠も無いのに、私を66,600円の窃盗犯にでっち上げた警察官は許されないし、検事は検事で、それを認めて、つまり盗った事にして、「66,600円にイロをつけて(のちに、言葉は、66,600円に少し足してと言う表現に変えたと思いますが…)、10万円を払えば済む事です」と…示談を勧めるばかり。
又、防犯カメラに映っている映像を私にはみせないで、「私は、ゆうべも防犯カメラの映像を何回も見たが、貴方は、間違い無くお金を盗っている。」等と、嚇(おど)す様な事を言って、示談を強要され、そんな恐ろしい示談誘導に脅(おび)えました。(私は、お金を盗ってないのですから、防犯カメラの映像に、そんなシーンがあろう筈も無いのですのに)。

 今振り返ってみても、理不尽な悪い権力と、ヘトヘトになりながら、よくぞ精いっぱい逃げ回ったものだと思います。

 本当に、無駄な力を使わされ…精も根も尽き果てました。今でも、憤りの遣り場もありません。

     切り開く他なし明日へ春の里     ひろし

2024年3月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2024.2.1 4日は立春10日は旧正月。浅春…。四畳半独房記・備忘録㉓「房での不自由」

2024.2.1 4日は立春10日は旧正月。浅春…。四畳半独房記・備忘録㉓「房での不自由」

 心新たに迎えた辰年でしたが、新年早々に能登半島地震、空港での大惨事…と、余りにも非情な出来事の連続で、新年気分は一気に吹き飛ばされて厳しい現実に向かう日々が続いて来た様です。

 そして、1月の24日と25日に列島を襲った強烈な寒波は、それまで割と暖かかった冬が一転、今シーズン最強寒波と大雪をもたらして大混乱…。異常気象が言われる中で、これから先、少しでも気候が穏やかであって欲しいと願うばかりです。
 蛇足ながら、暦を見て気がついたのですが、あの大雪があった1月24日、25日は、旧暦の暦では、1月24日が、旧暦12月14日。25日が旧暦12月15日…と言うと…連想しますのは、赤穂浪士の討入りがあったのが、元禄15年12月14日の夜。
この赤穂浪士の義士祭は、今の暦の12月14日に、東京高輪泉岳寺義士祭としるされていますが、これは、今の暦の、12月14日ではなく、明治以前の旧暦の12月14日、つまり、今年は、今の暦のあの大雪に見舞われた1月24日にあたっておりました。
 つまり、雪国でない地方で、積る程の雪が降るのは年が明けて、寒さ極まる1月半ば過ぎからで、忠臣蔵の舞台に似合うのは、この時期の寒さと、雪でしょう。

 忠臣蔵で思い出しますのは、三波春夫さんの「忠臣蔵・俵星玄蕃(たわらぼしげんば)」の、語り、名調子…。

一部記憶に残っているのは、
♪♪ときに元禄15年12月14日。江戸の夜風を震わせて、響くは、山鹿流儀(やまがりゅうぎ)の陣太鼓。しかも、ひと打ち、に打ち、さん流れ…。~耳を澄ませて太鼓を数え、お~まさしく赤穂浪士の討入りじゃ。助太刀(すけだち)するは、この時ぞ。…九尺の手槍を右の手に、切戸を開けて表にでれば、天は幽暗、地は凱凱(がいがい)たる白雪を蹴(け)立てて、行く手は松阪町。~一人の浪士が雪を蹴立てて、サック、サック、サック、サック、サック、サック。「先生!」「おう、そば屋か!」~。♪♪

 先だっては、泣かされた、大変な大雪だったのに、私の勝手な連想で、忠臣蔵・俵星玄蕃のセリフを持ち出して、申し訳ありません。若い頃、カラオケでよく唄っておりました。

 ところで、如月の2月は、4日が立春。10日は、旧暦の一月一日で、旧正月です。寒さは、まだまだ油断出来ませんが、夜明けも、わずかずつ早くなり、日暮れも遅くなり始めています。そして、よく観察して頂くと、晴れた日の日差しにも、わずかながら力が込もり始めていると思います。
 弥生3月へ向かって、春の兆しが、心を和ませてくれる月であります様に…。

     春近し千辛万苦(せんしんばんく)越へ行かむ     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録㉓「房での不自由…」
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)

 留置場の体験で、いきなり自由を奪われた苦痛を知りましたが、当時、房内で残したメモを見ると、<不自由な事>として、房の中には、机も無く、丸いトイレットペーパーひと巻き、毛布一枚だけしか与えられず、風呂あがりでも、タオルは持ち込めない(自殺防止の為らしい…)。また、昼も夜も、枕を与えられず、それも不自由だとメモしています。

 お茶は、出がらしの、味の無いものだったので、皆も、ほとんど、白湯(さゆ)を頼んで飲んでいましたが、白湯が意外にうまい、おいしいと言う事を知りました。
それと、私は、食後、必ず楊枝(ようじ)が要りますが、楊枝は与えられず、大変、難儀をしました。ただ、これは、刑事の、取り調べでは無い、取り調べと言うのは表向きで、実際は、異常な、自白を迫るだけのものでしたが、そんな取り調べの前に、刑事の「何か欲しいものがあるか?」と言う問いかけに、毎回「濃いお茶と楊枝が欲しい」と頼みましたら、優しげに、お茶と楊枝は与えてくれました。(そのあと、机を敲いたり、押したり、恐ろしい形相で、恫喝したりした時も…)
 また、房のトイレは、しゃがんでする昔のトイレで、夜9時から翌朝7時まで、筆記用具とメモ帳、メガネも取り上げられる事も不自由だと、メモに残してあります。

 とに角、それも、これも、盗っていないのに盗ったと言わせる、自白に追い込む為に…、作られているのが、留置場でしょう。私は、房のナンバーで「13号」と呼ばれました。

     鳥の来て揺れたる梅の影も香も     ひろし

煙石 博

2024年1月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2024.1.1 「辰年来福、祈・諸難消除」。四畳半独房記・備忘録㉒「社会と断絶の不安」

2024.1.1 「辰年来福、祈・諸難消除」。四畳半独房記・備忘録㉒「社会と断絶の不安」

 謹賀新年。良き年であります様願うばかりですが、何があろうと、…無かろうと、月日は川の流れの様に流れ流れて行くばかり。例えは悪いのですが、歳月には後ろ髪は無い…只々、過ぎ去る月日は、引き留める事も出来ず、私共は、時の流れに身をまかせ、迎えた辰年を、前に向かって歩かせて頂くばかりです。
 このブログも、私が66,600円の窃盗の濡れ衣を着せられて、無実の主張を法廷で闘う為に、状況のご報告と、私の思いの丈を発信すべく書き始め、無罪を勝ちとれた後も今日まで続いて来ましたが、気が付くと、これまで随分な量となりました。いつも、皆様のお忙しいお時間を頂き、お読み頂く事を申し訳なく思ってもおります。

 思えば、私のえん罪も、皆様の大きなご支援を頂いたお陰で、無罪を勝ちとる事が出来ましたが、時が経つにつれて、無罪が勝ちとれて本当に良かったと言う思いが深まって来ます。ご支援下さり、ありがとう御座いました。
 もし、無実の罪を着せられたままであったら…と想像したくは無いのですが、時々思いを馳せると、どう考えても、死んでも死にきれないと言う思いに至り…その度に、背筋が凍り付き、ゾッとするところです。
 それにしても、私が確たる証拠も無いのに、全く身に覚えが無い理不尽な濡れ衣を着せられ、えん罪を体験してみて知らされた事は、日本がいかにえん罪大国?えん罪に泣かされるケースが多いかと言う事です。検察も裁判所も助けてはくれず、えん罪被害者がいかに多いか…逮捕・起訴されると有罪率99%以上と言う数字がある事も知りました。
 えん罪は他人事ではありません。今のままでは、誰の身にも起こりうる事だと思えます。「えん罪は凶器無き殺人です。」絶対にあってはなりません。私のように濡れ衣を着せられて苦しむ方が出ない事を強く願っています。留置場での拙句ですが…
     秋深く晴れぬ容疑の苦の枕     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録㉒「社会と断絶の不安」
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)
 私が、広島県警の旧南警察署(丹那町)の留置場に入れられていたのは、10月11日から28日間で、11月7日まで居たと思いますが、冷暖房は無かった様に思います。初めは季節が良かったので助かりましたが、11月にもなると、夜が冷えるものですから、家内に、ウインドブレーカーを差し入れてもらい、寒さをしのぎました。今思えば、冬でなくて、まだ良かったと思います。
また、留置場に入れられる時、すべての手荷物は取り上げられ、勿論、携帯電話は没収されて、外界と一切遮断された時の、精神的な不安と孤独感は、恐怖と隣り合わせで、大変なものでした。ただ、助けられたのは、弁護士との接見は別として、一日一回15分位の家族との面会が許された事でしたが、警務官立ち合いのチェックを受けながらの、分厚いプラスチックの遮へい板越しの会話は、もどかしいものがありました。しかも、面会は、土曜、日曜と、確か祝日も、面会がなくて、憂鬱な一日だった事を思い出します。新しい南警察署は、同じ南区の出汐町に庁舎を移して、どうなのか分かりませんが、年末そして、新年の面会がどうだったのか、知るところではありません。どうなんでしょう…。
———————良い年である事を祈ります。

     老ひて尚ねばって生きむおらが春     ひろし        煙石博

2024年1月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2023.12.1 「拘置所にゃ~入っとらん!」 四畳半独房記・備忘録㉑「留置場裏の…

2023.12.1 「拘置所にゃ~入っとらん!」 四畳半独房記・備忘録㉑「留置場裏の…

 友人から電話があり、いきなり
友人「あんたぁ(あなたは)、広島拘置所に行ったんかぁ」。
私 「…いいや(いやいや)、ワシャー(私は)、拘置所には入れられとらんよ。ワシが入れられたんは、丹那町にあった、元の南警察署の留置場じゃあ」。
友人「いやいや、拘置所に入ったか…じゃなしに、拘置所の塀(へい)に画いてある絵を見に行ったんか…と聞いとるんよ」
私 「…はぁ、はぁ、広島拘置所の外塀(そとべい)に画いてある絵を見に行ったか、と言う事かぁ…」
友人「ほおよ(そうです)。あんたぁテレビのニュースでも、チラッと映っとったが、新聞の写真に写っとるんは、あんたじゃろう。

と言われ、事の次第が理解出来ました。10月30日(日)の事でした。

 新聞をよく確かめてみると、確かに、多くの参加者の中に、白髪の私が、塀(へい)に画いてある壁画を見ているのが確認できました。そう言えば、その2日前に、たまたまある知人から「煙石さんもご存知の広島拘置所の外塀に画いてある壁画を何人かで見るんですが、良かったら来られませんか…?」とお誘いを受け、その時は、行くとも行かないともお答えしませんでしたが、実は、あの絵を画かれた入野忠芳先生は、私が若い頃、(私の独身時代から、勿論、先生も若く、ご活躍でした)或る居酒屋で、時々お会いし、酒席を共にさせて頂いていました。

 そのお店は、カウンターひとつを囲む様に、10人余り座れば満席の小さなお店でしたが、お客さんは、多士済済(たしさいさい)。新聞社の論説委員、大学教授や学校の先生、俳句の主宰、俳人、詩人、市や県のお役人や、会社の社長さん等、お馴染みがよくお見えになるお店で、それぞれ、良き趣味を持った方々の文化サロン的な異業種間交流の場であった様なお店でしたが、それよりも何よりも、カウンターの中の温厚な人柄のご主人は、当時、広島で600人の会員を擁した大きな俳句会の顧問同人で、書も絵も達者、謡(うたい)も小唄も出来、お客さんからも尊敬される存在で、何と言っても、大変な人格者でした。若くして父を亡くした私も、俳句だけでなく、人生のカウンセリングや、人生勉強もさせて頂き、尊敬をしておりました。
 そんな居酒屋でのご縁があった入野先生が、のちに、広島市からの依頼を受けられ、広島拘置所外塀の壁画に挑戦され、苦労されて画かれたもので、この度、拘置所の建て替えが決定して、壁画のある外塀も取り壊されるらしいと、ニュースで聞いては居ました…。そんな訳で、外塀の絵を観に参りましたが、見学者は10数人位だろうと思っていましたら、何と250人もの見学者の1人となりました。
当日頂いた案内文から下記を抜粋します。

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 広島拘置所外塀の壁画は「広島城築城四百年記念事業」の一環として、広島市からの依頼を受け、故入野忠芳画伯が「江山一覧図絵巻」を元に江戸時代の広島城下の風景や風俗を描いたものです。この壁画は1989年の完成以来、市民の皆さまに親しまれてきたばかりでなく、被爆によって歴史的資料が乏しい広島市において、江戸時代の情景に触れることができる文化的な価値をもつ芸術作品でもあります。見学会を通して壁画の保存へのご理解を頂きますよう、願っております。

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 私の下手なスマホ写真ですが、壁画のほんの一部を添付します。


上の写真は、画家入野氏がある所へ寄贈された絵の一作品です。
下の写真は壁画の一部です。

拘置所があるところは、その昔、広島城内の北の郭(くるわ・土と石のかこい・砦)があったところだそうで、その少し西側の、裁判所の裏手には、大きな楠(クスノキ)が逞ましく枝葉を広げているところですが、江戸の昔をしのばせるかの様に土塁の一部が、人知れず残されており、江戸、明治、大正、昭和…の、時の流れを感じさせられます。
本当に、この壁画をなくすのは残念過ぎます。「元拘置所跡の外塀壁画」とか…。何とか、この絵のある外塀(そとべい)だけ残せないものでしょうか…。
ご都合つく方は、是非ご覧頂き、壁画保存にご理解頂ければと、私も思います。

     銀杏いちょう散る空の気嫌のよろしき日     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録㉑「留置場の裏…
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)

留置場裏から撮った写真を見て頂くと、2階のベランダの3分の2くらいに、小さな丸い穴を開けたガード板が確認できると思いますが、土日祝日以外の平日の朝…ここは、留置場に入れられた者の娑婆(しゃば)の空気が吸える、唯一の有難い場所になっていました。房内では普通のカミソリが使えない為(凶器になるから)、ここでは、許された共用の電気カミソリで(1人1人、交代ごうたいに洗って使う)ヒゲ剃りが出来るのと、距離は15m位、30歩位しかありませんが、人2人がすれ違いながら行ったり来たり出来る小さなウォーキングスペースにもなっていて、朝の、1人20分位ですが、交代ごうたいに娑婆の空とつながり、外の空気が吸えるホッとする恵の場所でもありました。只、たまに、ウォーキングの先の椅子に、立派な入れ墨を入れた方が座っている時があり、その時は、ウォーキングは休んで、深呼吸をさせて頂くだけにして房に戻りました。
 それにしても、南署に、渡り廊下でつながれた、こんな留置場があろうとは…そこでは、憤り(いきどおり)と、怒りで涙も出ない程くやしい日を過ごした人が随分いたであろうと思う事です。

     「施錠よし」と房の復唱鉄の冷え     ひろし

迎える年が、良い年であります様に。

     我思ふ故に酒ある夜長かな     ひろし             煙石 博

2023年11月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2023.11.1「今年の冬の到来は・・・」四畳半独房記・備忘録⑳鉄格子、また鉄格子…

2023.11.1「今年の冬の到来は・・・」四畳半独房記・備忘録⑳鉄格子、また鉄格子…

 今年は、これまで以上に異常気象を意識する中で季節が移って行く様な気がしますが、気候が、まるで、暴れ馬の様・・・。乱暴で優しさを失った季節は、時に私共に牙をむいている様に思えます。

 私なりに日記帳から振り返ってみますと、今年は全国的に桜の開花が早く、東京では観測以来最も早い3月14日で、平年より10日も早い開花。又、大阪府枚方市では、3月11日、府内の観測史上最も早い夏日となり、近隣の市でも、各地で、5月は、例年だと快適なシーズンである筈ですが、月の半ばから真夏日の暑さに見舞われ、昼夜の大きな温度差にも、閉口しました。

 さらに、梅雨の前には、天気がぐずつき始めて、走り梅雨とされる現象があるものですが、今年は、それがなく、いきなりの梅雨入りで、特に九州、中四国、近畿、東海地方では、例年より一週間も早く、5月29日。

 7月になると、各地で35℃を超える猛暑日に悩まされるかと思うと、九州では、線状降水帯とやらで、記録的豪雨に見舞われ、各地で、土砂崩れや河川の氾濫が相次ぎ、続いて、関東、東北でも大雨・・・。さんざんな梅雨が例年より早く明けると、7月の終わりから、いきなり35℃を超える猛暑日が襲って来たと言う感じで、熱中症多発。結局、7月の気温は過去最高。

 8月は、連日、暑い・暑い・熱い超猛暑に、クタクタになった事を思い出されませんか・・・。
 そして、9月になっても、しつこい暑さは去らず、よもや今年は秋が来ないのでは・・・と不安を抱き始めた頃、「暑さ寒さも彼岸まで」と言う言葉通り、彼岸を境に、一気に暑さが去って秋がやって来たものの、急激な温度差に震える秋の到来でした。思い返してみると、今年は、これまで、本当に大変な気候に身を預けて来た様です。

 そう言えば、今年の9月は、熊による死傷者が多く、過去最悪だったとか。熊が人里に餌を求めてやって来るのが早かったと言う事は・・・熊の行動から、今年は寒さの到来が早く、冬も厳しいのかも知れないと、思ってみたりします。
     様変わりするも故郷ふるさと銀杏いちょう散る     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録⑳「鉄格子、また鉄格子・・・」
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)

 人間は、嫌な事は早く忘れようとする自己防衛本能があるそうですが、それに逆らう様に、こうして嫌な体験を思い出しながら書こうとすると、気分が沈み始め、筆にも重い抵抗を感じるところです。しかし、さらば尚、勇気を出して書こうと思います。

 2012年10月11日(木)朝9時半頃、突然やって来た刑事2人に、広島銀行大河支店(私の家の近所)で、客が置き忘れたとする金を盗んだと決めつけられて、当然、盗ってないと主張する私・・・。2時間にわたる、激しい口論の末、有無を言わせず、逮捕状の呈示もなく、強引にも連行されたのが、家の近くの丹那町にあった(今は、出汐町に移庁していますので、~であった)広島県警南警察署でした。これは他人事ではありません。いつ、あなたの身にも・・・。私は定年後も、天地に恥じる事ない様に、余生を過ごしておりました。「怒り。」

 南署に着いて車を下ろされる前に手錠をかけられたと思いますが、手錠をかけられて、さらに気分が動転している私を、警察官が多勢いる部屋を歩いて通らされ・・・。この時の恥ずかしさ、屈辱感は相当なものでしたが・・・これは、手錠をかけられて、人前にさらされてみなければ理解して頂けない事かも知れないと思ったりします。
 ちなみに、重いだろうと思っていた手錠は、鉄かと思っていましたが、何と軽くて(軽くて丈夫な、セラミックみたいなものでしょうか)、肌触りは良く、ここだけの話ですが、装着感は、そんなに悪いものではなかった様に思います。ただ、恥かしく、屈辱的・・・。

 鉄格子の中以外は、たいがい、この手錠と、気になるのが、今も時代劇や歌舞伎で、罪人役がつけられているのを見る事がありますが、腰縄(こしなわ)をつけられて、検察や、裁判所へ連行されます。

 手錠をつけられた屈辱的な格好で、警察官が多勢居る部屋を歩いて通らされ、とりあえず、留置場手前の取り調べ室へ入れられました。が、そのあとは、鉄扉の様な扉の錠があけられて、渡り廊下(留置場は南署の隣の別棟ですから)を歩かされて(5m位でしょうか)、さらに廊下の出口の扉の錠を開けて、渡り廊下から出され、こんどは、いかにも牢獄と思わせるような鉄格子の扉の錠を開けて、そこで、署員が号令をかけ合い、敬礼をして、私は留置場へ引き渡されました。その向こうに、鉄格子の並ぶ房がある訳ですが、そこから数歩歩いて、13号の鉄格子の錠が開けられ、うす暗い4畳半位の長方形の独房に押し込まれました。
 よもや、それから28日間も勾留されようとは・・・。

     13号と呼ばれ時雨るる鉄格子     ひろし

 ところで、前号で、いずれ取り壊されると思いますが、今や空き家となった丹那町の南警察署の小さな留置場の事を、写真と刷り合わせて、少し書きました。
 下の写真は、大通りに面した反対側(丹那橋、山側の方)から写した遠景と近景です。

 この2階に、何か丸い穴がたくさんあけてあるガード板がついていますが、ここがベランダになっていて、ここは、ケージで囲われており、勾留されている者の、ささやかな、ウオーキング・スペースだったのです。その事は、次号にて―――。

 冬の電気あんか、炬燵等を出す目安となる炉開き、旧は、今年は11月13日(日)です。寒さに向かいますが、ご自愛ください。

煙石博

2023年10月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2023.10.1 「私の10月は、今でも嫌な月」四畳半独房記・備忘録⑲ 私の名前は13号

2023.10.1 「私の10月は、今でも嫌な月」四畳半独房記・備忘録⑲ 私の名前は13号

 広島県警南警察署が、9月19日(火)に出汐町の旧陸軍被服支廠の北側に新築移転する事については、前回のブログでふれましたが、新聞によりますと、鉄筋5階建て(地下あり)で、総工費約29億円、延床面積は8300平方メートル、丹那町の旧庁舎の3.3倍だそうです。又、留置施設の収容定員が増加する為、留置管理課の人員を、11人から16人に増やすとありました。私が不当逮捕されて、28日間留置され、自白を強要された丹那町の旧庁舎には、鉄格子の房は、7つか8つしかなかった様ですが、房の数が増えると言う事の様です。

 留置房の中で、唯一、少しほっとするのは、火曜日と金曜日の風呂時間。小さなバスタブが鉄格子の中にあって、かけ流しの1人風呂…。ただ、衆人環視状態、1人20分、しかも、バスタブに入って浸かってはいけません。病気があってはいけないからと、勿体無いけど、湯船の水は、ザーザーとあふれるままにしてあり、それを汲み出して、かけ湯として使う訳ですが、理不尽な留置への憤り、怒りをぶちまける様に、バサバサ荒っぽく湯を使ったものでした。

 そう言えば、私が突然、不当逮捕されたのは2012年10月11日(木)朝…あの時やって来た刑事2人、今頃どうしているのやら…。私の人生を壊された怒りは消えません。

     天高し地に我が疑惑晴らすべく     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録⑲「私の名前は13号」
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)

 消す事の出来ない嫌な記憶が残った丹那町の旧南警察署、その後、あの近くを通る事も、近付く事も、具合が悪くなりそうで、長い間避けて来ましたが、閉庁となった今では…と、勇気を出して、ガランと気の抜けた建物に近づいてみると、老朽化も激しい様で、その内、壊されるだろうと思い、写真に残しました。1枚目の写真は、旧南警察署正門あたりよりの写真。左奥が留置施設のある建物。

 2枚目は、その旧南警察署の北の留置施設のズームアップ。2階によろい戸が見えますが、あの窓側に刑務官の机が並んでいて、その向こうに通路があり、朝は点呼の為、そこに一列に並ばされて、1号、2号…と、番号で呼ばれて返事をします。
私は13号で、何故か、私の前にえん罪被害者となり無罪を勝ちとられた、元厚生労働省の村木厚子さんと同じ、13と言う数字でした。

 さらに、その通路の向こうに鉄格子があって、うなぎの寝床の様な長方形の狭い房が並んでいました。

     番号で呼び開錠かいじょうの鉄の冷え     ひろし

 薄暗い房の一番奥がトイレ(下半身の辺りだけ遮へいしてある)で、しゃがんで用を足す便器が、薄暗い、ナメクジでも這っていそうな中にありました。
 そんなトイレでしたが、極度なストレスの為でしょう、便秘が続き、最後まで便秘薬を使って用を足すと言う塩梅でした。尾籠(びろう)な話で申し訳ありません。
 ―――色々、思い出されて、今でも、気分が良くありませんので…このあたりで…。

     蠅取蜘蛛はえとりぐも房のかわやの釈迦如来     ひろし

お身体ご自愛、お元気でいらっしゃって下さい。           煙石 博

2023年9月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2023.9.1(旧暦7月17日)広島県警南警察署が広島市南区出汐町に転署・開庁

2023.9.1(旧暦7月17日)広島県警南警察署が広島市南区出汐町に転署・開庁

 今年は、猛暑、いや、激暑極まる夏でしたが、この稿を書いているのは8月半ば過ぎ。まだまだ、とんでもない暑さの中にあります。

 そうは言っても、おそらく、9月1日(金)あたりには、さすがの激暑も過去形となって、暑さも少しはおさまっているだろう…と思います。そうでなければ、大変な異常気象。

 それにしても、今年の夏は、月遅れの盆になっても、これでもか、これでもかの暑さがおさまらず、中々涼しくなってくれませんで、各地の盆踊り行事も、危険な猛暑の中で行われた様子が、テレビニュースで伝えられました。

 今では定着している月遅れの盆について考えてみると、これは、明治になって、世界共通の今の暦を生活暦とした時、盆が、そのまま7月の初めでは、まだ梅雨の終わり頃にもあたる為、盆行事に不具合もあり、便宜上、1ヶ月遅らせて、今の暦の8月15日を、月遅れの盆としたものですが、ちなみに暦を見ると、東京の盆は、今の暦の7月15日となっている様です。

     身を削り越ゆる猛暑の峠かな     ひろし

 そもそも、元々のお盆、旧歴7月15日頃の季節感は、暑い夏も衰えを見せ始め、朝晩も涼しくなって、秋が近付いて来る事を肌で感じ始めていた季節実感にあったと思います。
 また、その旧暦の盆は、必ず満月にあたり、先祖の供養の為の盆踊りは、満月に見守られての行事でもあった筈です。

 何はともあれ、昔の日本人は、旧暦の盆が過ぎると、間もなく、秋の収穫時期の大変な農作業も始まると言うライフスタイルの中に組み込まれていたものだったでしょう。
 そんな旧暦の盆ですが、今年は8月30日(水)。近づく秋の気配は…いかがでしょうか…。

 俳句の季語に、長い夏に疲れた日々、ふと、涼風や涼気が、肌に爽やかさをもたらして、秋を感じさせてくれると言う…新たに涼し…新涼(しんりょう)と言う季語があります。

     新涼しんりょうや恩師のふみの慈愛満ち     ひろし

 ところで、この程、広島県警南警察署の新庁舎が、広島市南区出汐町に完成し、9月19日転署・開庁となっています。
 1枚目の写真は、新しい広島南警察署の北側を横から写したもの。
左の道は、県立広島工業高校と県立広島皆実高校の専用通学路で、奥に見える木は、大きなクスノキです。その向こうに学校があります。

 2枚目・3枚目は、進徳女子高校側から撮った南署の正面と、斜めの角度から写したものです。右の奥に見える屋根は、レンガ造りの、旧陸軍被服支廠の建物です。

 何となく警察のイメージが湧いてこない、まだ周囲の景観に馴染まない大きな庁舎で、これまでの警察署とは違った感じの建物…建物の北側の左上に小さく「POLICE STATION」とあります。

 この庁舎の中の何処かに、留置場もあるのでしょう…。

     秋の蚊を打つや心を鬼として     ひろし

 下記の句は、2012年秋、丹那町の元の南署、独居房にての句。房の掃除は自分でする事になっています。しかし、掃き採るゴミは、私の抜けた髪の毛、がみばかりでした…。

     ぼう狭き掃きるは皆木の葉髪     ひろし

煙石博

2023年8月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2023.8.1(旧暦6.1)ラブピースのネコジャラシ。8月2日は満月〇。3日は厳島管弦祭

2023.8.1(旧暦6.1)ラブピースのネコジャラシ。8月2日は満月〇。3日は厳島管弦祭

 先月のブログ「気になる異常気象」の中で、暦の「半夏生(はんげしょう)」や、要注意の「半夏雨(はんげあめ)」に触れました。
 この「半夏生」と言う暦日(れきじつ)は、天気予報が報じられなかった明治以前の日本人にとっては、やはり、7月初めのこの頃…梅雨の後半にも入る時期でもあり、大雨も降り、梅雨末期の「送り梅雨」と言う言葉(俳句の季語にもなっています。)も、ある様に、梅雨最後の強い雨が降りつのる事があるので、注意をうながす意味が込められたものだと納得出来そうな気がします。

 先月の「半夏生」の事を書いたのは、6月の穏やかな梅雨の中で書いたものでしたが、今年の梅雨は、たまたま、それまでの、おとなしい梅雨が、7月初めの「半夏生」の頃より表情を変えて、とんだ暴れ梅雨となり、山陰地方を含め、九州北部・南部、さらに、東北地方にまで、線状降水帯を伴って、各地に大雨による大変な被害をもたらし、本当に憎々しい、心の痛む梅雨となって仕舞いました。

 それにしても、近年の気候現象は、異常を越えて、私共の生活に影響を及ぼし過ぎる気候変動にもなりつつある様な…。大変心配です。

     天災の多く悲嘆の虹とひ     ひろし

 思えば、「これでもか、これでもか」と言わんばかりの度重なる大雨、大水、大風、竜巻…死と隣り合わせの様な大変な猛暑の襲来は、そうとは思いたくありませんが、これ迄の、人間勝手、自分勝手な私共の社会活動や経済活動への、神仏の怒りの様にも思えて来ます。
 とは言え、ここは、言われております様に、地球的規模の温暖化現象を、科学的、合理的に考えて、良い方向に舵を取って行くのがいいのかと思えます。

 考えてみると、今の現状があると言う事は、必ず、その原因がある筈です。
 ああしたから、こうなって、さらにその前には、あれがあって、それが連鎖と言うもので繋(つな)がって来たから、今のこの結果がある…と、科学的、合理的に考えて、答えを見つけたいものです。

 これは、表現が的確でないと思いますが、日本のことわざに「風が吹けば桶屋が儲(もう)かる」の様な…理屈をさぐると、それはそれで、成る程と…。

 そう言えば、若い頃覚えた、都々逸(どどいつ)なんてのにも、「こおして、こおすりゃ、こおなる事と、知りつつ、こおしてぇ~、こおなったぁ~」♪ トトン、ツン、シャンと…。そんな文句を思い出します。

     炎天の影も仏となりにけり     ひろし

 所で、下の写真は、お馴染みの雑草、狗尾草(えのころぐさ)。別名、ネコジャラシですが、1枚目は普通のもの、2枚目は、めずらしい、ピースをしているもの。滅多にありませんが、よく見ていると、たま~に見つかります。これも、異常気象の影響か…。

 この、ピースのネコジャラシは、四つ葉のクローバーの様に、以前からありましたが、最近、割りと見つかります。と言っても、仲々、見つかりません。
 ともあれ、「ラブピース」です。皆さんにも良き事があります様に…。

     蟬しぐれ泣けぬ男の昭和あり     ひろし
     八月や殊に命をたっとびぬ        ひろし

 お身体、大切になさって下さい。             煙石 博

2023年7月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2023.7.1(旧暦5月14日)「気になる異常気象」。

2023.7.1(旧暦5月14日)「気になる異常気象」。

 暦は早くも、今年の半分を越えて、一年の後半の日々を数える事となりましたが、7月前半の日本列島、九州・四国・本州地方は、梅雨末期の雨を覚悟の時期を越えなければなりません。特に最近は、降り出す雨が線状降水帯とやらで、度々、水禍をもたらしますので、そんな事にならない事を祈ります。

 旧暦の暦に、立春、啓蟄、立夏、等の二十四節気に加えて、節分、八十八夜、入梅、彼岸、等の雑節(七十二候)と言われる暦日(れきじつ)が記されていますが、その中のひとつに、半夏生(はんげしょう)と言うのがあります。
 語源は、半夏(はんげ)・カラスビシャクと言う、畑等に生える多年草の雑草(漢方にも使われる様ですが)が盛んに生える時期から来ているもので、今年は7月2日(日)です。

ハンゲショウ(『山野草たちの歳時記』より)

 この時期は、梅雨の末期に入り、雨に用心という意味が込められた暦日で、この日の雨は、半夏雨(はんげあめ)と言われ、大雨になると言われておりました。この時期の雨は、大水をもたらすので、注意もしなさいと言う、昔の知恵が込められているのが、この半夏生だと思います。

 ところで異常気象と言われる様になって随分になりますが、異常ならば、その内正常な気象へ少しずつ戻るかと言えば、どうも、その景色には程遠くなり続けて、むしろ、私共の常識を越える様な異常気象が起き続け、その被害が出ることも度々・・・異常気象が居座り、自然災害への不安が高まったままの昨今となって仕舞った様な感じすらします。

     憂ひ事あるやにバナナ湾曲す     ひろし

 そもそも、このままならない異常気象の始まりを振り返ってみると、数年前に私のこのブログでも書いた記憶がありますが、10数年前、2011年3月11日の、東日本大地震・津波が起きた前の年、2010年だと思います。
 と言いますのは、長い間、俳人としても生きて来たつもりの私の自然観察メモを見直してみると、2009年までのメモには、自然による大災害は、時折り発生する程度で、大きな異常気象を意識する程のメモは残しておりませんが、東日本大地震・津波が起きた前の年、2010年と言う年は、大変異常な気候を体験した年だった事を敢えて記入しておりました。
その2010年の私のメモを見ると、「気候不順の一年・・・残暑がいつまでも続き、秋が無く、一度に冬が来た様な気候・・・」と敢えてメモしています。そして、「2010年は、秋の無い年・・・。12月に入っても奇妙に暖かい日が続く」とも記しています。

 又、俳誌でも目にとまった様で、当時、まだ、ご存命だった俳句結社ホトトギスの名誉主宰、稲畑汀子先生が、2011年の1月号の誌面最後の消息欄に、「新年明けましておめでとうございます。平成二十三年一月号をお届け致します。~昨年(2010年)は、思いがけなく大事な方々が亡くなるという事があり、また気候の不順な年でございました。残暑の厳しかった日々が過ぎると、忽ち(たちまち)秋を通り越して一度に冬がやって来たような状態で、体調がそれに付いていけないような方も多かったようでございます。~。」と、気候の異常を特筆されていた文面を、私の俳句メモに記録しておりました。

 思い返してみると、こんな異常気象の始まりは、あの東日本大地震・津波が起きた前の年、2010年だった・・・ように思えます。

 とに角、この2010年から今に至るまで、異常気象は進み続け、それが日常の様にもなって仕舞っている様です。

 ふと、思いますに、「春夏秋冬」の優しい季節の移ろいの中で暮らして来た私共ですから、今の、自然の怒りの様な過酷な気候に晒(さら)され続けている事は、知らないうちに、何らかの精神的ストレスが溜(た)まり続けているのでは・・・と、心配したりも致します。呉々も、お体ご自愛下さいます様にと思います。

     老骨へ豪速球の猛暑来ぬ     ひろし

 最後に、私も時々自転車で通りますが、新しい広島県警南警察署(広島市南区出汐町に移る)が、ほぼ出来上がりつつあります。(旧陸軍被服支廠の北側、県立広島工業高校、県立皆実高校の近くです。)
新築工事の完了は、7月31日となっている様です。写真を添えます。

煙石博     

2023年6月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien