煙石博さんはある日突然に謂われなき罪に問われ、苦しんでいます
この苦しみは彼一人だけではなく、家族の皆さんも地獄の苦しみを
味わっています
このブログでは、その時々の彼の思いを綴っています
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2021年3月1日 悟りは脚下にあり! 「コロナに足をすくわれてたまるか‼」
2021年3月1日 悟りは脚下にあり! 「コロナに足をすくわれてたまるか‼」
コロナに振り回され続けて、随分長いような…。いや、思い返してみると、日本でのその話の始まりは、まだ1年余り前の事なのに、とても、長い時間の経過を感じます。
そう言えば、昨年の旧正月、1月25日より前。どうも、中国の武漢という所で、新型コロナウイルスによる感染症が発生し、次第に大変な状況になっている事がニュースで報じられていましたが、その後、よもや、世界中をこんなに震撼させる大疫病騒ぎになろうとは…。
また、同じ頃、ダイヤモンドプリンセス号の乗客から罹患者が発見されてからの混乱も、日本人には、まだ対岸の火事、
街中にマスク姿が増えたので、2020年4月1日の私のブログのタイトルも、『ムーンライト・マスクマン…月光仮面…コロナはクルナ!!』とあり(2020年4月1日のブログを読む)、その後、よもや、今の様な展開になろうとは全く思っておりませんでした。今や、あの手この手のコロナ対策が、1日も早く功を奏する事を願うばかりです。
とにかく、この様な、混乱に混乱の中で、ふと思う事に、「脚下照顧」…まず、自分の足元を見て、自分の事を戒めなければならないという禅の言葉だと思いますが、この言葉から、私流の思いに解釈し、「悟りは脚下にあり」で、この様な混乱の時にこそ、脚下をしっかりと見据えて、冷静沈着な心で、身の周りの出来事を、大所高所から見る物差しで計らなければならないと思ったりするところです。
しかし、この混乱と不安の世の中で、「うろたえてはいけない」と思いつつ、「思慮深く…思慮深く…」と、自らに言い聞かせながらも、実は私も、うろたえているのではないかと自信がありません。
真直ぐなる覚悟真白き雪中花 ひろし
本当に、日本も世界も、われわれは、コロナ、コロナに心を奪われ、心乱されて、混乱状態にあるとしか見えません。果たして、もの事も正常なる判断がなされているのか…、そして行くのか…。不安な気持ちでいるのは、私だけで無ければ「共感相和す」とでもいう、表現が出来るかどうか…不安な思いの慰めにしたいところです。
そういえば、餅まきに参加した時、投げる人の方ばかり見上げていては、餅は拾えない。ひたすら、最初から、自分の足元あたりをしっかり見ていれば、落ちた餅が転がって来て、沢山拾う事ができます。
春近し
ところで、前号(2021.2.1.あの楠は歴史の語り部だった事。「丹那橋に行ってきたんよ」…?)で、南区出汐町に新築される広島県警南警察署の工事が、まもなく始まるでしょうと書きましたが、先日、ウオーキングの時、よく見ると「広島南警察署庁新築その他工事のお知らせ」という掲示があって、「着工予定・令和3年11月1日。完了予定・令和5年7月31日」とありました。(2021年2月1日のブログを読む)
着工は、今年の秋頃よりという事のようです。
それと、私の冤罪事件が、少し前、日刊現代の1月9日付と、1月16日付けの紙面に掲載されました。[前編]と[後編]の紙面を添付させていただきます。(クリックすると拡大されます。)
アフターコロナ等といいますが、早くコロナ禍が収まって、人と人との輪、そして、人とのよき絆のある日常が帰って来る事を願います。
お身体、くれぐれもご自愛なさってください。 煙石博


2020.2.1 あの楠は歴史の語り部だった事 。 「丹那橋 に行って来たんよ。」…?
2021年2月1日 あの楠は歴史の語り部だった事 。 「
前号(2021年1月1日)で、日刊ゲンダイ(駅の売店やコンビニで販売)の1月9日(土)付けに続き、1月16日(土)付けの紙面、「『告白』あの事件の当事者」の中で「煙石博アナ窃盗冤罪事件」として私の冤罪事件が掲載されました。まだお読みになっていらっしゃらない方がありましたら、日刊ゲンダイDIGITALのサイト、「政治・社会>事件」にある「『告白』あの事件の当事者」(https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/3416)でしばらくの間、読んで頂く事ができます。
(直接リンクはコチラ → 煙石博アナ窃盗冤罪事件 前編)
→ 煙石博アナ窃盗冤罪事件 後編)
それと、もうひとつ、去年11月26日(木)に、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった弁護士の久保豊年先生が、広島弁護士会主催の「市民法律講座」の第3回で、「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」と題して話をされ、日本の司法制度の問題点を指摘されましたが、私も少し話をさせて頂きました。この模様が12月6日(日)のTSSテレビ新広島のニュースで伝えられました。

ところで、昨年2020年12月1日のブログ「出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…」の所で、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く通学路にある、楠の大樹2本について少し書きました。あれは、被服支廠が出来た頃植えられた様で、被爆前まであった皆実神社、伊
ところで、昨年2020年12月1日のブログ「出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…」の所で、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く通学路にある、楠の大樹2本について少し書きました。あれは、被服支廠が出来た頃植えられた様で、被爆前まであった皆実神社、伊勢神宮分祠の境内に植えられていた神木で、その残された2本(終戦後3本残されて、後に1本伐られ、現在は2本が残されているもの)であった事を綴りました。
実は、昨年の暮れ、たまたま、中区の袋町小学校の所にある市民交流プラザのロビーで開かれていた、被服支廠の写真展を見ました。それがきっかけで、戦前、母親が出汐町の被服支廠に勤めていたと言う女性から、被服支廠には、働く女性の為に保育園もあって、ご自身もそこに預けられていた様でしたから、伺ってみると、確かに、その神社は、被服支廠の入り口の近くにあった様で、多くの人が、社のある左側に向かって参拝して入っていた事を話して下さいました。
それを知った私も、改めて、かの大樹の下に
この訳知り顔でもある楠の大樹に、これから先の、なお良き広島の平和な未来を見届けて欲しいと願うばかりですが、少年時代、あの辺りでも遊んでいた私も、子供心ながら、あんな場所に何故あんなに大きな楠があるのか…気に掛かってもいたものですから、積年の謎が解けた様な気持ちで、改めて、歴史の重みを感じるところです。
考えてみれば、あの辺りは、その昔、海が埋め立てられて出来た、何も無い新開地だったでしょうから、そこに出来た、当時、日本の最新技術をもって造られた洋風レンガ造りの鉄筋コンクリートの建物は、際立つ存在の建造物群でもあった事でしょう。
つまり、その正門辺りにあった神社の境内に植えられ…戦後、2本だけ今に残された楠は、明治、大正に続く昭和の戦前、戦中、さらに被爆、終戦、そして、その後の長かった昭和の戦後復興から、今日に至る歴史に身を委ねて来た貴重な語り部でもあった訳です。
水仙や空いっぱいにちぎれ雲 ひろし
さてさて、これは、前のブログでも触れましたが、この楠のすぐ西側の大通りに面した辺りに、私が、不当逮捕・勾留された広島県警南警察署が移転する事になっていて、昨年末に平地にされ、まもなく、南警察署の新築工事が始まる様です。
さらば…
今、南署がある丹那の土手あたりは、一般には、格好のウォーキングコースでもあり、私も定年後のウォーキングコースのひとつにしておりましたが、私は、この南署に不当勾留された忌まわしい体験によって、あれ以後、あの辺りを遠くから見るだけでも、今でも怒りと憤りが込み上げ、大変、不愉快で具合が悪くなりそうです。
あれから8年経ちましたが、今でも、今の南署辺りには1センチたりとも近寄りたくないダーティーゾーンである事に変わりありません。
風花や悲嘆に暮れし日も
これは、酔余の夜咄になりましょうか…、昔、友人と一緒に立ち寄ったスタンド(飲み屋)で、聞くとはなく聞いたのですが、常連らしきお客さん二人がこんな会話をしていました。
男性A「あんたあ(貴方は)、顔を見んかったが、どうしとったんや(何をしていたのか)。具合でも悪かったんかいの?」
男性B「いやいや、体は悪うないんじゃが、ちょっと、丹那橋に行って来たんよ。」
丹那橋は、私の家の近くある橋の名前だったもので、それを、こんな意外な所で耳にした私は… 「丹那橋に行って来たんよ」とは…?ハテ…?
そのあと、2人は、何かお金の事で、ああだこうだと、ヒソヒソ話をしていた様でしたが、「丹那橋に行って来た」という意味が理解出来ませんでした。
賢明な皆様は、ピンと察しが付かれたかと思いますが、私が南署の留置所に入れられた事で、それが理解出来ました。
つまり、丹那橋は南署のそばにありますから、そこの留置所に入っていたと言いたくないので、「丹那橋に行って来た」という表現にした、隠語?・合言葉だったのではないかと想像するところです。蛇足ながら、南署が移転した後は、この「丹那橋に行って来た」と言う隠語に代わって、何か新しい言葉が生まれる…のかどうか…。
風はまだ冷たく香り梅日和 ひろし
コロナが早く収まってくれる事を願うばかりです。お身体大切にご自愛下さいますように。
煙石 博
2021年1月1日 牛根性・モウ根性 黎明の富士に始まる初暦 ひろし
2021年1月1日 牛根性・モウ根性 黎明の富士に始まる初暦 ひろし
新しき年の始めに…、と書き始めて、ふと思うのですが、考えてみると、何が新しいのか、昨日も今日も、そして明日も、同じ毎日が続いて行くだけの事であり、それを人が作った暦で『新年』と押し付けられても、新しくも何とも無い…とは思いますが、1日の始まりは、お天道様が昇る処から始まって、その日を無事過ごさせて頂き、そのお天道様が、必ず沈む事によって、とりあえず1日の終わりを教えられる訳です。
それがなければ、それこそ、ひとりの人間が眠る事無く、ず~っと起き続け…働かされるとなると、これは、たまらない。日が昇り、日が沈むと言う、大きな自然の摂理の中に日々生かされていると言うお陰を感じ、その日々の積み重ねの先にある365日と言う1年の括りは、生きている限り、前に向かって歩いて行く為の一里塚の様なものか…。
しばしば、引用されますが、時代変わっても、今の私共に思いが伝わって来る、一休禅師の狂歌と、高浜虚子の俳句が思い出されます。
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし 一休
何はともあれ、新しい年を迎え、明けましておめでとうございます。
昨年は、本当に、コロナに振り回された1年でしたが、今年は、何とか早くこれを乗り越えて、平穏な日常が戻って来る事を望むばかりです。
昔、若い人達が、「あけましておめでとうございます」を「あけおめ」と、つづめて使って、その言葉が一時とびかった事があったのも…遠い昔の話になりますが、定着しなかった様で…。 私は、昔、逢う人ごとに「あけましておめでとうございます」と言うお決まりの挨拶に疲れ…「あけましておめでとうございます」と挨拶された方へ、その人の気を引こうと、「あけたら…閉めてください」と返して、相手の冷たいリアクションを、ひとり楽しんでいた事もありました。
ところで、今年は丑年。今では「子・丑・寅…」の、十二支を言えない若者も多くなっている様でもあり、丑年だからどうと言うものではありませんが、この十二支の干支が、毎年変わるので、変わり映えのしない新年が「今年は丑年かぁ…。」と、何となく、心新たに迎える一年の始まりを意識させられるようでもあります。
只、干支は社会生活に関係ないので、すぐに、今年の干支が何だったか忘れてしまって、「今年の干支は何でしたかねぇ。」と聞かれて、
余談ですが、昔々、街角の易者の、「丑年生まれの人は~、辛抱強く、根気よく、言葉少なく、信用もあり、スローに過ぎるが玉にキズなり。牛根性、モウ根性、テコでも動かないのが丑年生まれの人~」という口上を思い出す私は、やはり、「古いヤツ…ですなぁ~」
それにしても大変な正月になったもんで、色々、自粛要請に従ったコロナ禍の正月ではありますが、考えてみますと、正月も時代と共に姿を変えて来ました。
昭和21年(1946年)生まれの私が子供の頃は、戦後の貧しい時代でしたから、日々の食事も本当に貧しいもので、ご馳走を食べるのは、盆と正月くらいなものでした。
ですから、正月は、おふくろが作った質素なおせちでしたが、それは、非日常の、晴れの大ご馳走…。のちに、それを経験しているお年寄り…は、「今頃は、毎日、盆と正月が来た様なご馳走を食うとる」と言っていました。また、正月の3日、肉の少ないスキヤキでしたが、『スキヤキ』が出た時には、飛び上らんばかりのご馳走でした。
又、正月がレジャー化し始めたのは、のちの高度成長期からだった様な…。それまでは、家か近場で、静かに過ごす正月で、たまに、1月3日に映画に連れて行ってもらった記憶があります。
ともかくも、今年は、コロナを意識しての不自由な正月ではありますが、ふと『寝正月』という言葉を思い出しました。思い返してみると、昔の新年は、自らをリセットして、心新たに「1年の計は、元旦にあり!」と、年ごとに、再出発を心掛けようとする正月でもあったような。しかし、時代変わって、長らくレジャー化し、慌ただしく賑やかな正月に慣れてきましたので、ここで「寝正月」と言うと、懐かしく古めかしい正月スタイルの様にも感じる処です。 「地獄極楽は心にあり」…心の持ち方ひとつ…心の持ちようで、古典的な?『寝正月』もまた、至福の新年。佳き一年のはじめとしたいものです。 「1年の計は、元旦にあり!」何か懐かしい言葉、と思う方は、いらっしゃいませんか。今や「1年の計は…簡単である!?」
酔余の句です。
酒あらば鬼に金棒寝正月 ひろし
父母も猫も祖父母も寝正月 ひろし
朝酒の
※「食べてすぐ寝ると牛になるよ~(笑)」と、子供の頃、よく言われませんでしたか?
丑年で思い出しましたが、こんな狂歌もあったような…。
この世をば
ニュース
●『日刊ゲンダイ』の紙面で、私の冤罪事件が、今のところ予定ですが、1月9日(土)と、翌週1月16日(土)、前・後2回にわたって記事になる予定です。(ひょっとすると、少し後になるかも知れませんが)
●私の冤罪を、記事で支援して下さった『冤罪File』、しばらく店頭に出てなくて、心配していましたが、昨年の年末に、本屋さんで、よく調べて頂きましたところ、1月末に、次号が出る予定と分かりました。ペンの力を期待しています。
最後になりますが、新年の私の年賀状を掲載いたします。
今年は、人類の叡智を集め、何としてもコロナを乗り越え、平穏な世界が戻って欲しいと祈るばかりです。

今年は、人類の叡智を集め、何としてもコロナを乗り越え、平穏な世界が戻って欲しいと祈るばかりです。
2020年12月1日 出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…
2020年12月1日 出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…
11月26日(木)に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」に多くの方のご参加ありがとうございました。コロナ対策で一席ずつ空けてのソーシャルディスタンスで、会場は、ほぼ満席の80人近くの皆さんで埋まりました。
久保先生は世界の有罪率等の、例を挙げ、とても分かりやすく、問題点を指摘されました。「…起訴されると、99.9%有罪と言う数字は、考えても恐ろしい事…この数字は、たくさんの冤罪被害者を生み出しているという事でもありましょうか、日本の警察・司法のあり方は、国際的にもその問題点を指摘されていて…」等と言う様なお話をされました。
先生のお話の後、私にも少し話をと言う段取りでしたので、お礼の気持ちなどを話そうと思っておりましたら、本番では、思っていたより、かなり早い時間にマイクを受ける事になって、本当のところ、内心少し慌てましたが、あれでもと思って、持参していた冤罪関係の本、数冊を、とっさに手にして登壇しました。
まず、元厚生労働省の冤罪被害者、村木厚子さんの「私は負けない」の中より、「あってはならないフロッピー改ざんの事や、事実と異なる供述調書が沢山作られていた問題…。罪を認めない人が、いつまでも身柄拘束されるのは問題であり、それが、本人と家族の生活を、どれだけ破壊する事なのか、検察と裁判所は、本当に理解しているんでしょうか。」等を紹介しました。
次は、弘中惇一郎先生の著書「無罪請負人」から、シャラップ発言を紹介。2013年5月、スイスのジュネーブで開かれた国連拷問禁止委員会の席上、委員が、「日本の刑事司法は中世に近い。」と言って「取り調べに弁護人の立ち合いがないと、誤った自白が行なわれるのではないか。自白に頼りすぎる取り調べは、中世のなごりだ。日本の刑事手続きを国際水準に合わせる必要がある。」と指摘すると、日本の人権人道大使は、「この分野で日本は世界一の人権先進国だ。」と反論した。これに、会場から苦笑、失笑が漏れると、日本の大使は、「何がおかしい。笑うな。シャラップ‼シャラップ‼」と叫んで、その場にいた参加者をあきれさせた。(このシーンは、私もテレビニュースで見て、驚きました。)更に、委員会は、日本への勧告として代用監獄(留置場)、自白強要、独房への監禁、死刑などの問題をあげた。…日本の刑事司法の現実は、前近代的であり、国際基準に照らしても相当遅れている事は確かである…。」を紹介。
そして、日本で多くの冤罪事件に取り組んでこられた、弁護士の今村核先生の「冤罪と裁判・冤罪弁護士が語る真実」より、有罪率99.9%について「職業裁判官にとって、被告人に判決を言い渡すことは日常のことであり、週のうち2日ぐらいは、判決を言い渡している。そのほとんどは有罪判決であり、最高裁が毎年発表する司法統計年表によれば、全起訴人員のうち、有罪判決を言い渡される被告人は約99.9%である。無罪は1000人にひとりだ。総じて言えば、職業裁判官は、『有罪への流れ作業』に慣れ親しんでおり、検察官の起訴内容を、検察官が請求した証拠により、そのまま認定するのが彼らの日常となっている。」他、問題ある裁きの実態などの所を紹介しました。
そして、久保先生へのお礼と、私が、冤罪被害者になって、絶望と孤独の中にある時、私の無実を信じて、「ひとごとではない。あすは我が身。許されない!」と声をかけて下さり、支援して下さった多くの皆様にお礼を申し上げました。
久保先生が、最後の所で、日本の人質司法はよくないので、「起訴前保釈制度」を作ってほしい事と、「弁護人の取り調べ立会制度」を認めてほしい事を話されました。
私も冤罪を生みださない為に役立つ制度だと思います。
思いますに、私が、この冤罪を通して勉強させて頂いた事の一つに、薄れて行く、人と人との絆がいかに大切なものであるかと言う事を身をもって知りました。
悲を耐へて小さき仕合わせ
人肌の恋し鳩居の
ところで、前号で、広島県警南警察署が南区出汐町(広島県立広島工業高等学校、広島県立広島皆実高等学校の入り口あたり)に引っ越すらしいと言う事で、南署での四畳半独房日記を書き始めましたが、移転先に当たる出汐町の警察官舎の、解体作業が思っていたより早く、既に終わって更地にされましたので、独房日記の続きは、次号にして、今日は、南警察署が引っ越す出汐町あたりの事について思いが昂り、書かせて頂きます。
出汐町は、今は市街地の真っ只中にある町となっていますが、出る汐と書いて、出汐と言う町名にされたのは…、これは広島の旧市街地のほとんどが、干拓に次ぐ干拓で、歴史は遡って、毛利、福島正則、特に江戸時代250年の長い浅野藩時代には、大規模な海の干拓が進められ、更に明治には、宇品地域の広大な埋め立てによって出来たと言う歴史があります。
そもそも、出汐町のすぐそばにある比治山も、古来より、広島湾内にある島の1つでしたが、江戸時代中頃までには埋め立てられ、広島城下と陸続きになったものです。
話は少し横道に入りますが、その比治山の南麓では、昭和7年(1932年)、軍の連隊施設の工事中に、縄文時代の石器、土器、貝塚が出土して発掘調査が行われたと言う記録が残っており、戦後、昭和25年(1950年)比治山貝塚として、県の史跡に指定されて世に知られる処となりました。実は、私も若いころ、居酒屋の広島の地雀、物知りのお年寄り達から、「比治山の周囲には、他にも何ケ所かの貝塚らしきものがあった」と聞いております。また、この比治山は、広島城から見ると、虎が臥(ふ)せている様にも見えるので、臥虎山(がこざん)と親しみを込めて呼ばれてもおりました。
(※私の作詞、佐伯金次郎作曲、新宅未奈子唄の「比治山慕情」を、カラオケで、聴くだけでも、かけて頂くと、わずかですが、私に、数円の印税が入ります。)
話は本筋に戻ります。つまり、比治山は、江戸時代半ば迄には、広島城下と陸続きになったものですが、埋め立てられても、その当時も、すぐそばには、京橋川が広島湾へと流れ込んでいたと思います。今の進徳女子高校や県立広島工業高校、県立広島皆実高校あたりは、川に向けても、寄す潮、引く潮が身近な地であったので、それにちなんで、出汐町と言う地名が付けられたのだろうと思いますが、語源を見ると、潮は、しおの干満で、本来は朝方に起こる干満の変化、また、高くなる方のしお。朝潮。満ち潮。
対して汐は、しおの干満で、本来は夕方に起こる変化、また、低くなる方のしお。引き汐。夕汐。例→汐干狩り。月の出汐。出汐(いでしお、でしお)は、月の出と共にさしてくる、満ちてくる汐。おもんばかってみると、夕日が美しく沈む、有難い西方浄土の方角が望める位置にある、昔、海だったところにちなんで、出汐…色々、その昔がしのばれる、町の名です。
広島県警南警察署は、その出汐町に移転するのですが、そのすぐ南側には、近年、被爆建物として保存の声が高まっている、赤レンガの旧陸軍被服支廠が、4棟ほど残っております。今でこそ、宅地に囲まれておりますが、私が子供のころは、(半世紀以上も昔の話になりますが…)4棟残された建物の南側は、見渡す限りの蓮田(はすだ、レンコン田)で、建物の西側も、蓮田か畑ではなかったかと思います。あの辺りは、人家の無い寂しい所で、私共、子供の遊び場でもありましたが、西側の3棟のうち、建物と建物の間の広場に、結構大きくて深そうな防火用水だったのか?水槽があって、そこで、魚釣りもしたり、(ヒブナか、鯉が育っているらしくて、私は釣り上げる事はありませんでしたが、なにしろ、終戦後の、物も無い、お金も無い、子供もひもじい時代でしたから、それを釣り上げ、どこかへ売りに行って、小遣い銭にしていた年長坊主もいたと聞いていました。)
あの辺りで日暮れまで遊んだりもしていましたが、その事を親に話したら、強い口調で、「あの辺りは、ひとけが無い所だから、子供が遊んではいけない。」と、諭されました。のちに、安全上の問題と衛生面の事からでしょう、取り壊されて、埋められました。
話は、戻りますが、私は、随分前から、あの建造物は、被爆建物でもありますが、それ以前の歴史を語る歴史的建造物として保存する価値があるのではないかと思っていましたし、機会ある毎に、人にも、その事を話しておりました。あの赤レンガ造りの建物群は、大正2年(1913年)に完成した物で、現存する最も古い鉄筋コンクリート造りの建物として評価されていい建築物ではないかと思っています。
明治以降の日本は、欧米の文明を取り入れて近代化を進めた時代であり、レンガは、文明開化を象徴する物として扱われ、その時代を物語るのが、この洋風の、赤レンガ造りの建造物であるとも思います。そもそも、赤レンガ1つをとっても、明治の初めは、日本で製造する技術はなく、イギリスからの輸入に頼っていた様ですが、日本人も、その技術を習得して、国産レンガが作られる様になりました。国産レンガの産地のひとつに、蛸壺造りの技術があった広島の安芸津が全国に名を馳せました。被服支廠のレンガは純国産の一級品、安芸津産の物ではないか?と思いますが、近代化遺産としても、明治、大正、昭和の歴史を物語る歴史的建造物群でもあるので、保存する価値がある物だと思う訳です。
最後に、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く、幅広い通学路の中ほどに、昔は3本だけ残されていましたが、今は、2本となった大きな楠が、堂々と枝葉を拡げています。この2本の楠は、実は、あそこには、被爆の前まで、あの辺りの新開地の守り神だったのでしょう、皆実神社、伊勢神宮の分祠があって、その参道にあったものの様です。残された2本の楠の大樹は、大正、戦前の昭和、そして被爆の惨状を目のあたりにした歴史の語り部でもあり、この地の戦後の復興を見守ってきた証人とも言えましょう。今は被爆樹の一つにもなっています。
今年は被服支廠保存の声が高まりましたが、今年の夏の、私の拙句です。
物言はぬ声八月の被服支廠 ひろし
今年の冬が穏やかであってくれればと願います。
十二月雑踏に我が孤独の灯 ひろし
皆様におかれましても、お身体くれぐれもお大事になさって下さい。
煙石 博
2020.11.1 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)
2020年11月1日 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)
前回のブログで、11月に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」のパンフレット・参加申し込み書をご案内しましたが、その3回目の講座【11/26(木)18:00~19:30】で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」がある事をお知らせしました。これにつきましては、久保先生が、私の冤罪のケースを素材にお話されるという事のご報告と、お時間が許す方は、ご参加下されば…と言う思いで、パンフレットをご案内させて頂いたものでしたが、ブログをお読みになって「参加したいのですが、都合付かず申し訳ありません。」という丁寧なご返事を頂いた方もあり、余計な心のご負担をおかけし、申し訳ありませんでした。
ところで、もう一つ前回のブログの最後に、「四畳半独房日記より」として、広島県警南警察署の留置場の(広島市南区丹那町)、私が入れられた独居房13号…の事について綴りましたが、この余白部分で、もう少し書かせて頂きます。
さて、留置場は、入ってまず一番手前が1号、次が2号で、確か、3・4が無くて、13号、その隣が、雑居房の5号、6号、その奥が7号であったのか…そこには、上半身?入れ墨を入れた方が(入浴の時などで、チラと拝見しました。)入っていました。なにしろ、留置場内をじっくり確認して歩く訳にもいかず、しかも、私自身が大変な状態にある訳ですから、そんな事に気を留める余裕もありませんで…その様な部屋割ではなかったか…と思います。私が入れられたのは独房の13号でしたが、私より前に冤罪被害に遭われた元厚生労働省の村木厚子さんも、何故か、同じ13号だったと知りました。
私の居た独房13号を、四畳半と表現しましたが、これは、一番奥の、タタミ1畳分のスペースの半畳分が、古典的な和式便所になっていて、残りの半畳分は、便所の鉄扉の開閉の為に必要なスペースで、板の間になっていました。その和式トイレの部分は、目の荒いセメントが塗られていて、ナメクジでも這って居そうな湿気の多い、薄気味悪い一角で、鉄格子の向こうの刑務官から私が見える様に、上半身部分はガラス張りで、その下は、下半身だけ隠れる程の壁になっていました。
そのトイレ部分のこちらは、ビニル畳(ネチャネチャとする感じのもの)を横に3枚並べてある寝起きのスペースですが、鉄格子の出入り口の所は、タタミ一畳くらいのスペースがあって、その三分の一くらいが、食事や水などを差し入れる為の板張りになっていました。つまり、寝起きのスペースは、大雑把に長方形の薄暗い四畳半という感じでした。この、天井の高いコンクリート打ち抜きの様な冷たい鉄格子の部屋は、夜には、ゴーゴーと吹きぬけて行く風の音が聞こえ、不気味でもありました。ここは海の方から吹いてくる風の道…の様です。10月はそうでもなかったのですが、私の誕生日の11月2日頃には、夜が更けるとシンシンと冷えて、さらに不安が募りました。
私は、広島生まれの広島育ち、この土地で生まれ育ったので、
そこは、私の子供の頃の遊び場でもありましたが、魚、海苔、かに、シャコ、わかめ、あさり等の豊かな漁場でもあり、のちに廃線となりましたが、国鉄(JR)宇品線ルートの途中にありました。
広島駅の0番線ホームを発車した汽車は(SLが走り、後にガソリンカーも走って…)大洲、段原を抜け、出汐町の今の広大病院の前を通り、宇品へ向かっていましたが、今の広大病院がある所は、戦前、軍の兵器支廠があった所で、終戦後は、長らく広島県庁が移転して来ていました。県庁の入口に、木造の結構大きな上大河(かみおおこう)駅があり、その駅前には、広電のボンネットバスが、くるりと回ってやって来るハイカラなロータリーがあって、暮らしの匂いのする賑やかな町がありました。
県庁が現在の基町に移転した後は、広大病院が出来て今に至っています。
宇品線は、その上大河(かみおおこう)駅から、さらに南の、私の住んで居る町の下大河(しもおおこう)駅、そして、小さな無人駅の丹那…終点の宇品へと延びていました。
この丹那沖の豊かな干潟は、釣り場でもあり、春には、宇品線に乗って潮干狩りにやって来る人で賑わい、夏には海水浴も出来た所です。
その後、丹那橋(たんなばし)から遥か沖までの入り江は埋め立てられ、マツダの宇品工場が出来ますが、その扇形の広い埋め立て地の一丁目一番地に当たる様な所に、広島県警南警察署が出来ました。そこは埋め立て地の丹那橋のたもと辺りになります。
そんな訳で、私の子供の頃の、愉しく青い夢を育んだ思い出のエリアで、よもや、晩年になって、こんな目に遭わされ様とは…悔しくも、切ない涙が…溢れます。無罪を勝ち取った後、今でも、南警察署に近づくのも嫌で、大変な苦痛を覚え、あの留置場での28日間の忌まわしい記憶を拭い去る事は出来ません。
実は、以前、新聞で読みましたが、その南警察署が、数年後、南区出汐町の広島県立工業高校そばの、県警官舎跡に移転するそうで、既に官舎の取り壊しが進められています。…次回へ続く…。
■■以下は、留置場で書いた覚え書き、日記より■■
2012.10.16(火)、今日は、AM10時より、ポリグラフ検査(嘘発見器の様なもの)を受けた。検査中、少し開けた窓から秋風が吹き込み、しばらく外の空気を吸う事が出来て、ちょっぴり、ほっとする。秋晴れ。私は、お金を盗って居ないので、ポリグラフ検査に異常が出る訳は無いと…自信を持っている。担当官から「結果は、取り調べが全て終わるまで明らかに出来ない。」と言われた。(今思えば、これも、とても妙な話ではあります。)
秋の空うそ偽りの無き高さ ひろし
10.16(火)の夜に記した句 これは、近作の拙句ですが…
青春の日々は遥かな青林檎 ひろし
寒さに向かいますが、くれぐれもお身体ご大切になさって下さい。
煙石 博