2020.2.1  あの楠は歴史の語り部だった事 。 「丹那橋たんなばしに行って来たんよ。」…?

2021年2月1日  あの楠は歴史の語り部だった事 。 「丹那橋たんなばしに行って来たんよ。」…?

 前号(2021年1月1日)で、日刊ゲンダイ(駅の売店やコンビニで販売)の1月9日(土)付けに続き、1月16日(土)付けの紙面、「『告白』あの事件の当事者」の中で「煙石博アナ窃盗冤罪事件」として私の冤罪事件が掲載されました。まだお読みになっていらっしゃらない方がありましたら、日刊ゲンダイDIGITALのサイト、「政治・社会>事件」にある「『告白』あの事件の当事者」(https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/3416でしばらくの間、読んで頂く事ができます。
 (直接リンクはコチラ → 煙石博アナ窃盗冤罪事件 前編
            → 煙石博アナ窃盗冤罪事件 後編

 それと、もうひとつ、去年11月26日(木)に、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった弁護士の久保豊年先生が、広島弁護士会主催の「市民法律講座」の第3回で、「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」と題して話をされ、日本の司法制度の問題点を指摘されましたが、私も少し話をさせて頂きました。この模様が12月6日(日)のTSSテレビ新広島のニュースで伝えられました。


 ところで、昨年2020年12月1日のブログ「出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…」の所で、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く通学路にある、楠の大樹2本について少し書きました。あれは、被服支廠が出来た頃植えられた様で、被爆前まであった皆実神社、伊
 ところで、昨年2020年12月1日のブログ「出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…」の所で、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く通学路にある、楠の大樹2本について少し書きました。あれは、被服支廠が出来た頃植えられた様で、被爆前まであった皆実神社、伊勢神宮分祠の境内に植えられていた神木で、その残された2本(終戦後3本残されて、後に1本伐られ、現在は2本が残されているもの)であった事を綴りました。

 実は、昨年の暮れ、たまたま、中区の袋町小学校の所にある市民交流プラザのロビーで開かれていた、被服支廠の写真展を見ました。それがきっかけで、戦前、母親が出汐町の被服支廠に勤めていたと言う女性から、被服支廠には、働く女性の為に保育園もあって、ご自身もそこに預けられていた様でしたから、伺ってみると、確かに、その神社は、被服支廠の入り口の近くにあった様で、多くの人が、社のある左側に向かって参拝して入っていた事を話して下さいました。
 それを知った私も、改めて、かの大樹の下にって仰ぎ見ると、時代の風雪に耐えて成長してきた楠が、とても重い何かを語りかけて来る様な思いがして目頭が熱くなりました。

 この訳知り顔でもある楠の大樹に、これから先の、なお良き広島の平和な未来を見届けて欲しいと願うばかりですが、少年時代、あの辺りでも遊んでいた私も、子供心ながら、あんな場所に何故あんなに大きな楠があるのか…気に掛かってもいたものですから、積年の謎が解けた様な気持ちで、改めて、歴史の重みを感じるところです。

 考えてみれば、あの辺りは、その昔、海が埋め立てられて出来た、何も無い新開地だったでしょうから、そこに出来た、当時、日本の最新技術をもって造られた洋風レンガ造りの鉄筋コンクリートの建物は、際立つ存在の建造物群でもあった事でしょう。

 つまり、その正門辺りにあった神社の境内に植えられ…戦後、2本だけ今に残された楠は、明治、大正に続く昭和の戦前、戦中、さらに被爆、終戦、そして、その後の長かった昭和の戦後復興から、今日に至る歴史に身を委ねて来た貴重な語り部でもあった訳です。

     水仙や空いっぱいにちぎれ雲   ひろし

 さてさて、これは、前のブログでも触れましたが、この楠のすぐ西側の大通りに面した辺りに、私が、不当逮捕・勾留された広島県警南警察署が移転する事になっていて、昨年末に平地にされ、まもなく、南警察署の新築工事が始まる様です。

 さらば…丹那たんなの南署…となる訳ですが、私は、埋め立てられた丹那に南警察署が出来る以前の、父や母の愛にも似た、優しく豊かだった海があった事を知っている者です。そこは、少年時代の遊び場でもあったふる里の良き思い出あふれる地であったのですが、今となっては、今ある南署の建物が無くなっても、少年時代のかけがえの無い思い出を壊されたばかりでなく、むしろ、私にとっては消す事の出来ない悪夢の蘇る所となりました。それも、私が受けた大きな人生の心のキズと共に、生涯癒される事は無く、唇を噛む無念な思いが残るところです。

 今、南署がある丹那の土手あたりは、一般には、格好のウォーキングコースでもあり、私も定年後のウォーキングコースのひとつにしておりましたが、私は、この南署に不当勾留された忌まわしい体験によって、あれ以後、あの辺りを遠くから見るだけでも、今でも怒りと憤りが込み上げ、大変、不愉快で具合が悪くなりそうです。
 あれから8年経ちましたが、今でも、今の南署辺りには1センチたりとも近寄りたくないダーティーゾーンである事に変わりありません。

     風花や悲嘆に暮れし日もくや     ひろし

 これは、酔余の夜咄になりましょうか…、昔、友人と一緒に立ち寄ったスタンド(飲み屋)で、聞くとはなく聞いたのですが、常連らしきお客さん二人がこんな会話をしていました。

 男性A「あんたあ(貴方は)、顔を見んかったが、どうしとったんや(何をしていたのか)。具合でも悪かったんかいの?」

 男性B「いやいや、体は悪うないんじゃが、ちょっと、丹那橋に行って来たんよ。」

 丹那橋は、私の家の近くある橋の名前だったもので、それを、こんな意外な所で耳にした私は… 「丹那橋に行って来たんよ」とは…?ハテ…?
 そのあと、2人は、何かお金の事で、ああだこうだと、ヒソヒソ話をしていた様でしたが、「丹那橋に行って来た」という意味が理解出来ませんでした。
 賢明な皆様は、ピンと察しが付かれたかと思いますが、私が南署の留置所に入れられた事で、それが理解出来ました。

 つまり、丹那橋は南署のそばにありますから、そこの留置所に入っていたと言いたくないので、「丹那橋に行って来た」という表現にした、隠語?・合言葉だったのではないかと想像するところです。蛇足ながら、南署が移転した後は、この「丹那橋に行って来た」と言う隠語に代わって、何か新しい言葉が生まれる…のかどうか…。

     風はまだ冷たく香り梅日和      ひろし

 コロナが早く収まってくれる事を願うばかりです。お身体大切にご自愛下さいますように。

                                 煙石 博

2021年2月1日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien