2021.08.01   「華麗なる一家?」 ◇改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録③◇

2021.08.01   「華麗なる一家?」 ◇改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録③◇

 前号(7月1日)「季節外れの野菊が咲きました。」で、例年だと、10月、11月に咲く筈の、私が育てている野菊の2株が、5月半ばから咲き始め、今もまだ咲き残っていますが…咲き急いだのは、よもや、そのあとの、例年にない梅雨のありようや、さらに、過激すぎる夏の到来…、そして、そのあとの猛烈な激暑の夏の事を予知していたのかも…、と思ったりするところです。この後の季節がどうなって行くのか…。

 ところで、新型コロナの為に、私もそうですが、長い間、外で飲んだり、外食の回数が減っていましたが、だからと言って、その分、お金が残っているかと言うと、そうでは無い…のは?…。そういえば、お金の事を『御足(おあし)』とも言って、足が付いておりました。…しかし、足が付いているだけでは無く、私には、羽根も付いていると思えてなりません。
 外食について思い返してみますと、私共、戦後昭和生まれにとって、昔々の外食は、家族に目出度い事があったり、給料やボーナスが入った時の、一家団欒の晴れの行事。
 しかし、飽食の時代となった今では、外食は日常的なものとなって、それはそれで有難く仕合わせな事だと思いますが、新型コロナの影響で、そんな生活スタイルが変わり、我が家でも、家での食事が多くなりました。特に、夕食のメニューは、焼き飯、焼き肉、焼きそば、カップ麺等に加えて、時々、テイクアウトのものが食卓に…。そして、これらに、レトルトカレーもメニューに加えると、有名ホテルのカレーや、銀座や新宿や神田のカレー、北海道の札幌スープカレー、青森のリンゴカレー、お肉屋さんのカレー、老舗洋食カレー、松阪牛や飛騨牛カレー等と、色々あって、カレーも、強力なメニューとなってきました。「インド人は、毎日でもカレーを食べているんだ」と、しょっちゅう、おいしくいただいて、愉しんでおります。

 そんなカレーメニューが多くなった我が家の食卓で、私が家族に言った言葉が「我が家は『華麗なる一族』ならぬ『カレーなる一家』だね」。…対して、「古いねぇ~」と言う家族のリアクション。コロナのお陰で、カレーライスを食べる事が増え、『華麗なる一族』を思い出すと言うのも、(鶴田浩二風に)「私も、古い奴でございます。」そして、加齢なる男でもありましょうか…。 思い出せば、昔々、1970年代初め、高度経済成長を背景に、大富豪の銀行一族の華麗なる姿を描いた、山崎豊子の「華麗なる一族」と言う長編経済小説がベストセラーとなり、ドラマ化、映画化もされて、大ヒットした事もありましたが、昭和は、遠くなりにけり…です。 ところで、今年は、借りた狭い空き地に、秘かに育てて来た大待宵草(月見草)が、超激暑に耐え、とてもよく咲き続けてくれています。
 夜9時頃咲いて、翌日昼前に、一夜の命を終わります。7月下旬、朝7時の写真です。

   夜遊びの星を仰ぎし月見草    ひろし

        改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録③

これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。


  さて、広島検察庁(広島市中区基町)の地下留置場は、泊まれる部屋は無さそうで、上階に居る検事の取り調べを待つ待機場でした。
 市内の留置場に入っている容疑者は、朝10時に、ここに護送されて、いつ取り調べがあるのか、何の説明も無いまま、不安のうちに、自分の番号を呼ばれるのを、イライラしながら待たされ続ける場所でした。5時間以上待たされた事もありました。
 仕切りの壁が無い、鉄格子だけで仕切られた各ブースには、少しのシートスペースがありますが、6人か7人が、一緒の鉄格子に入れられるものですから、対面状態になって、私の顔を知っている人が居たらどうしようと、陰鬱な気分になりました。
出来るだけ隅っこで目立たない様にしていましたが、中のひとり、20歳位の若い兄ちゃんが、私に、「おじさんは、何でここに連れて来られたん?」と、問いかけてきました。他の者も居て、私に視線が集まってもいる様だし、どう答えていいか困りながら、仕方なく、「金を盗っとらんのに、盗ったと言われとるんじゃが、あんたに説明する必要は無い。」臆する事は無いのですが、その場から逃げ出したい思いでいっぱいでした。
 又、この検察庁は、近年、新築された建物なので、南署と違い、トイレは洋式だったと思いますが、トイレットペーパーは、その都度頼んで受け取り、用を足せば返却を求められました。勿論、注文する時も返却する時も、私の声は、他の人にも聞こえる訳で…、注文したのは一度だけでしたが、とても恥ずかしい思いでした。(用を足している様子は、上半身が、外からも見えます。)
 そして、弁当の食事を済ませた後など、刑務官?が、各鉄格子内へ「お茶にしますか?白湯(さゆ)にしますか?」と、声を掛けて回ります。私は、いつもの様に「白湯をお願いします。」と、白湯を頼みますが(何故、白湯にするかは、次の号で説明します。)他の者も、たいがい、白湯を頼んでおりました。)、私の隣の鉄格子の兄ちゃん(ここに来る事には慣れた風な、中年前のお兄さん)が、刑務官に「お茶にしますか?白湯にしますか?」と、問われて、少し声高に「白湯‼。満タン‼」…上級者?ベテラン?恐れ入りました。

 それから、これは、留置場を出て、かなり後になって判った事ですが、ものものしい護送車は、容疑者の私共を乗せて街中を走ります。(各警察署の留置場と検察庁間を護送。)当然、他の一般車と並んで走りますが、車高の高いトラックや、通勤バスとも、隣り合わせになったり、信号待ちで並んで停車します。すると、私の方から、向こうの車の運転手や、通勤バスの乗客が全部見えます。…こちらから見えると言う事は、向こうからも、こちらの私が見られていると思って、護送車の中では、精一杯身を縮め、顔を伏せ、人目を避ける様にして、辛い体勢で乗っていました。
 ところが、後で、その心配は全く必要がない事を知りました。
 と言いますのは、後に、日常生活に戻った時、時折り、見覚えのある警察の護送車を見かけると、複雑で辛い思いに駆られますが、よく見ると、こちら側からは、プライバシー保護の為の特殊フィルムが貼ってあるのか、外から、車内が全く見えない様になっていました。ヤレヤレ…。そんな訳ですから、あってはなりませんが、皆さんが、万が一にでも護送車に乗る様な事があった時、堂々と乗って、護送されて下さい?   ――続く―― 

   バナナ熟れ団塊世代高齢化    ひろし
   八月や殊に命をたっとびぬ      ひろし

 地獄の釜の蓋が(私も見た事はありませんが)壊れた様な激暑、炎熱地獄、… 呉々も、お身体ご自愛なさって下さい。
                            煙石 博

2021年7月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2021.7.1 季節外れの野菊が咲きました。改めて、四畳半独房日記・その補足・備忘録②

 数年にわたって、苛酷で厳しい気候不順が続いていますが、俳句を趣味にしている私としても、最近は、とにかく穏やかで優しい日本の美しい四季の姿が戻ってきて欲しいと願うばかりです。 荒々しい天候不順の中で、時折、季節を間違えて咲く花を見たりしますと、草花が戸惑いながらも、懸命に生きている姿を垣間見る思いがしたりします。

 実は、私は、家のまわり等の狭い余地で、今は、余り見かける事が少なくなった野紺菊(のこんぎく)・野菊や、大待宵草(月見草)等を育てて?密かに愉しんでいますが、例年、10月過ぎに咲いている野菊の数株が、今年は、5月の初めに蕾を付け、5月半ば頃から咲き始めて、夏の昼顔と一緒に咲きました。(このブログ原稿を書いている6月25日、昼顔の花は、盛りを過ぎたようですが、この野菊は、まだまだ咲き続けています。)  
下記の写真は、6月半ば頃の昼顔と小菊の写真です。

花には、それぞれに、春夏秋冬の四季という、ほぼ決まったお座敷があるのに、例年、秋に咲いている小菊の一部が、季節を違(たが)えて、昼顔と一緒に咲こうとは…。
例えれば、お座敷を間違えた小菊姐さん(こぎくねえさん)か…。
   昼顔の座敷とられて菊の酒?   冗句ジョーク
   (朝顔に釣瓶つるべとられてもらひ水  千代女)
   昼顔の恋は短き花の宴   ひろし

改めて、四畳半独房日記・その補足・備忘録②

これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。

 留置場を出されて検察等に移送される時は、勿論、手錠、腰縄を付けられて、朝、何人かが、物々しい感じの護送車(小型のマイクロバス)に乗せられて移送されます。

 南区宇品の南警察署から中区基町の検察庁まで、途中、富士見町の東警察署(現在は、広島駅の北へ移転しており、跡地には、ヒルトンホテルの新築工事が行われています。)や、中央警察署等に立ち寄って、検察庁に向かいます。
 身に覚えが無いのに、突然、逮捕されて 留置場に入れられた私は、二晩一睡も出来ませんでしたが、三日目の朝、検察、裁判所に送られました。

 前の日の夕方に、刑務官から「明日は、検察庁と裁判所に行ってもらうが、手錠をかけた部分を隠す布と、顔を隠す布があるので、明日の朝までに、いるか、いらないか、考えておく様に」と言われました。 
…テレビでよく見る、留置場から出て来る容疑者の姿が、何度も思い起こされて、恐ろしくもなるし、一晩中悩み続けて…迷いに迷い…いくら考えても結論が出ませんでした。
 翌朝、9時前に、鉄格子から出される時にも、まだ決断がつきません。手錠をかけられた数人が、鉄格子の外で等間隔に並ばされた時…、「そうか!私はお金を盗っていないのだから、卑屈になる事も、臆する事も無い。堂々と署を出て、護送車に乗ってやろう!と…一大決断をして「手錠を隠す布も、顔を隠す布もいりません‼」と、刑務官に伝えました。

 ところが、ところが、南警察署を出て、護送車に乗る時も、護送車が南警察署を出る時も、私が想像して恐れたマスコミのカメラは、一台もありません。しかも、途中、立ち寄った東警察署、そして、中央署を経由して、最後に基町の検察庁に到着するのですが、マスコミの取材に会う事も無く、護送車は、検察庁の裏側にある地下へのスロープを下って庁内に入り、何事も無く?鉄格子が幾つもある留置場に入れられました。
   ―続く―

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・

 ところで、これは、本当に思いがけない事だったのですが、少し嬉しく驚いた事でしたので、ご報告までに書かせて頂きます。
 我が家では、NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」を、よく見ますが、6月18日(金)の夜(翌朝、再放送されました)の放送を見ていると、25分位の所で、「裁判で、勝訴や無罪の紙を持って走っている人って誰?」というテーマになって、その時使われた映像3例のうち、その最後の所で、「世間の注目度が高い裁判」という見出しが出て、私共が、2017年3月10日、最高裁での逆転無罪判決を勝ちとった直後、私の無罪を勝ちとって下さった久保豊年弁護士と、「煙石博の無罪を勝ちとる会」の会長、そして私が、最高裁判所前で「無罪」の布を持った、あのシーンが放映されました。わずか5秒でしたが、本当に思いがけない映像を見せられ、…一瞬、嬉しく驚きました。
あれから4年になりますが、当時の事が鮮明によみがえります。
私共が、皆様のご支援を頂いて闘った冤罪裁判の逆転無罪は、私の後に、私のような被害者を出さない為にも、大変に意義ある事だと思うところです。改めて、皆様のご支援にお礼を申し上げます。有難うございました。深謝。

※上の写真は、幕末の黒船騒動の頃に渡来したと言われる、北米原産の大待宵草(オオマツヨイグサ)。一般では、月見草とも呼ばれて親しまれていますが、竹久夢二の「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ~」と歌われた宵待草は、この花。
又、太宰治宵待草と書いたのも、このオオマツヨイグサだったのでしょう。
この花も、今年の開花が早く、最初の花が咲いたのは、6月16日朝、一株だけ、雨の中で咲いていました。この株は、今も咲き続けています。
ちなみに、この花は、夜の8時過ぎに咲き初め、10時頃咲き揃って夜を咲き続けますが、花の命は、翌日の昼過ぎ…。
     一夜ひとよさの夢見心地の月見草   ひろし

皆様のご健康をお祈りしています。    煙石 博 

2021年6月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2021.6.1   改めて、四畳半独房日記・その補足・プロローグに続く備忘録①

2021.6.1   改めて、四畳半独房日記・その補足・プロローグに続く備忘録①
 
 人間と言うのは、善いにつけ悪いにつけ、自分あっての自分だと思いますが、今のご時世、多くの人が、我が身の事だけで精一杯。それが既に危険水域を越えているのではないかと思えて来そうな…。

 すべてが疫病コロナ禍の嵐の中で、とても過去の平穏な社会の時とは違い、私共は心の余裕がないまま、社会のありようや、さまざまな出来事に対して、仲々、心が及ばない心理状態にもなっているのではないかと思え、…憂慮したりもしています。
世の中、早く心穏やかな日々へ向かってくれないものかと願うばかりです。

 ところで、異常気象と言うのも今さらと思われそうな程、病いでいえば、現代は慢性化した異常気象の中にある様な…。
 今年も、4月1日の「ふるいけや…」のブログに書きましたが、春先から季節は先を急ぎ、何に急かされているのか、何かの意思でもあるかの如く、急ぎ足の移ろいの中にある様な気がしています。
 思い出せば桜の開花も随分早く、広島が全国一早くて3月11日でした。
 また身の周りの花々は、「咲き急ぎ、散り急いで」来ている様です。

 更に、今年の梅雨入りは異常に早く、広島は5月11日で3週間くらい早く、広島に夏を告げる祭(毎年、6月初めの行事で、浴衣着初めの祭「とうかさん」の声も聞かないのに、梅雨入りした様な塩梅です。
 穏やかならぬ気候が続き、麗しく、優しい日本の気候を忘れてしまいそうです。

   疫病蔓延古色蒼然梅雨にる  ひろし 

 さて、思い出したくない私の留置場での記憶ですが、忘れてしまう前に補足の備忘録として、書かせて頂きます。

 私の場合、冷静に振り返ってみると、刑事は、私が窃盗犯ではあり得ない無実の証拠や事実があるにも関わらず、それをあえて無視したかのような無茶苦茶な犯行ストーリーを作っていました。 それは、一般の常識では理解できない、窃盗犯に仕立て上げる為の犯行ストーリーでした。

 その上で、突然の逮捕となった事になりますが、何故、そんな犯罪にも等しい事をやったのか、私には全く理解出来ません。
 それにしても、七度ななたび生まれ変わっても許せない事です。

 私は、突然の逮捕に気が動転したまま、何が何だか理解出来ない状態で、広島県警南警察署に連行されましたが、手錠をかけられて、南署員の前を歩かされた屈辱感の中…気が付けば、鉄格子の中に押し込まれていました。
とに角、何も悪い事をしていないのに、身に覚えが無いのに、頭の中は理不尽に逮捕・連行された「怒り」と、社会からいきなり引き剝がされて「孤立した」という不安が加わって、真暗闇の混乱状態…。

 孤独と恐怖に震えながら、勿論、私は、お金を盗っていませんから、この時も、私が濡れ衣を着せられて、あってはならない悲劇の冤罪に巻き込まれているとは思ってもおらず、「何かの間違いだから、よく説明すれば、判ってもらえるだろう」と思っておりました。

 私は13号の独房に入れられて、勾留28日間、名前を呼ばれる事は無く「13号」と呼ばれる事となりました。(2012.10.11(木)~2012.11.7(水))

   13号と呼ばれ時雨しぐるる鉄格子   ひろし
   「開錠」と房の復唱冬隣ふゆどなり     ひろし

 「13号」については、奇妙な共通点を発見をしました。それは、私と同じ冤罪被害者、元厚生労働省次官の村木厚子さんも、大阪拘置所で、13番(こちらは“号”ではなく“番”でしたが…)という番号が与えられたそうです。

 南署の留置場での房は、6つか7つ位あって、私が入れられていた房は、入口の方から、1号、2号、そして3号があったのかどうか定かでありませんが、4号は無くて(“4”の数字は避けてあるのか…)、その次に、私が入れられた13号の独房があり、その向こうに5号、6号…、7号があったかどうか…。
これらの事は、囚われの身の私がチェックする訳にもいきませんので、この程度しか書けません。

 ところで、留置場から連行される容疑者が、やつれ顔で無精髭を伸ばしたまま連行されるのを、TVニュースで見る事がありますが、体験者の私は、そんなシーンにとても複雑な思いが広がって、悲しくなってしまいます。

 少々話が逸れるかも知れませんが、やつれ顔については、房の中では、眠れる環境や状況でないのが理由だと、ほとんどの方が思われると思います。
 無精髭については、髭を剃る余裕がない事もありますが、私の場合はそれだけが理由ではありませんでした。

 房の中に持ち込めるのは、原則として、全ての物が制限されており、ひと巻きのトイレットペーパーと、毛布1枚だけが与えられます。夜はこの毛布に敷布団一枚を与えられて、寝ていました。 枕やタオルも与えられず、枕に顔をうずめて窒息や、タオルで首をくくるといった事が無いように…ではないかと思ったりします。

 髭を剃ろうにも、当然の事、カミソリは凶器になるとして、使わせてもらう事はできません。
 電気カミソリを使えなくもないのですが、凶器にならない指定されたものを購入するか、共同使用できる、1つの電気カミソリを借りて使うかのどちらかでした。
 共同使用のものは、狭いベランダ通路の出入り口辺りに置かれているもので、毎朝、順に与えられる「ベランダ通路のウオーキング」(20分位)の時しか使えません。
しかも、それを使う前には消毒液を使って、自分でカミソリ部分などを消毒して使わないといけないので、何となくそれが嫌で、電気カミソリを使う事を諦めて、髭をそのまま伸ばす事に決めました。

28日間の拘留を終えて、髭が伸びたまま保釈され、我が家に帰った時の、私のスナップ写真です。久しぶりの我が家は、やはりホッとするものでした。

【写真】

 私は中学・高校時代から、(故)森繫久彌さんが好きで、特に高校の放送部時代は、NHKラジオの、森繫さんの「日曜名作座」を必死で聞いて、勉強させて頂きました。

そんな訳で、晩年の森繫久彌さんの髭に雰囲気的にも似ている気がして、そのままでいようかと思いましたが、家族から「お父さんの髭は、胡散臭そうに見えるから」と言われ、28日間の怒りと苦しみを共にした、涙の髭をそり落としました…。

 皆様のご健康と、コロナの終息を願うばかりです。

   ひと夜さの星を我がもの立葵   ひろし
   広島の白さも白き夾竹桃     ひろし

煙石 博

2021年5月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2021年5月1日  世は「脱炭素社会」へ…私は乞う!「脱冤罪社会」へ!!
            ~改めて、四畳半独房日記・その備忘録~

2021年5月1日  世は「脱炭素社会」へ…私は乞う!「脱冤罪社会」へ!!
                 ~改めて、四畳半独房日記・その備忘録~

 3月の終わり頃でしたか、新聞の小さな記事で「村木元次官が講演」と言う見出しが目に入りました。
 元厚生労働省次官の村木厚子さんが、北海道札幌市で講演されたと言う記事でしたが、村木さんと言えば、検事の証拠改ざんによって冤罪事件に巻き込まれ、数少ない無罪判決を勝ちとった冤罪の被害者。数年前に、広島弁護士会館で、村木さんの講演を聞かせて頂きましたが、お元気のご様子でした。
 又、先日、4月10日には、NHKのEテレで、村木さんと、警察小説の第一人者、今野敏さんとの対談特集では、冤罪事件の体験談を話していらっしゃるのも見て、改めて怒りを覚えました。(番組サイトはコチラ

 そして、その約1週間後、日本テレビ系列「NNNドキュメント」という番組で、「濡れ衣・闘い続ける余命1年」という、茨城県利根町布川で起きた布川ふかわ事件の冤罪被害者の1人、桜井昌司さんの苦難の道のりを見ました。(番組サイトはコチラ) …憤りと共に、無罪となったあとの闘いや、彼の勇気にも敬服し、冤罪を少しでも少なくする為に、闘い続けて欲しいと思いました。

 ところで、私も、忌まわしい体験の真実を残しておきたいと、このブログを綴って来ましたが、冤罪の濡れ衣を着せられたのは、2012年10月11日(木)で、8年余り前の話になります。

 人間には、嫌な事は早く忘れて仕舞いたいとする自己防衛本能があるらしく、その忘れて仕舞いたいとする本能に抵抗する事は、心が重く、辛い事だと自覚しているところです。

 しかし、時と共に忘れて仕舞う前に、もう少し、備忘録として残しておきたい事も…と言う思いもあり「四畳半独房日記」の補足をもう少し…と言いながら、思い出して書こうとする度、気が重くなって、仲々、筆が進みませんでした。

               改めて、四畳半独房日記の補足・備忘録

 まずは、そのプロローグです。

 2012年10月11日(木)、朝9時過ぎ、突然やって来た刑事2人の1人、T刑事と、置き忘れられたと決めつけた金を、盗った盗らないで、2時間にも渉る激しい口論の末、もう1人のM刑事が、大きなリュックサックのチャックを開け、「逮捕状」と手書きされた茶封筒(A4サイズ位)の文字を見せて、逮捕状の呈示もなく、手錠をかけ「11時30分!煙石博を逮捕する!」と言って、広島南警察署に連行しようとしました。

 私には全く身に覚えの無い事で、斯くなる上は、署に行って盗ってない事を説明・主張すれば判ってもらえるだろうと覚悟を決め、仕方なくワゴン車に乗りました。妻も同行させて下さいと言ったのですが、「奥さんは乗せる訳にはいかない」と、拒否されました。
 南署は家の近くですから、妻には自転車で付いて来る様に頼み南署に向かったですが…。
 私は、ワゴン車の中で手錠をかけられた様に記憶していますが、手錠姿の私は、そのまま署の留置場に入れられて、妻と引き離されて会わせてもらえませんでした。
 私は最初から、起訴される事が約束された被疑者として、留置場に入れられる段取りとなっていたのです。

 ワゴン車で南署に連行された私は、刑事に引っ張られる様にして、留置場に続いている南署の取り調べ室らしき所に連行されるのですが、そこに行く途中、強烈に脳裏に焼き付いている記憶があります。
 それは、突然、有無を言わせず、強引に手錠をかけられて、何が何だか気が動転している私を、多くの署員(?)が見ている職場(執務室?)の前を歩かされました。
 私は、定年までRCCのアナウンサーとして働いていたので、RCCの煙石さんだと気づく署員も多いのではないか…手錠をかけられた私の姿を見られている…どうしよう…どうしようと思っても、どうしようも無い恥辱。目から火の出る様な思いに、頭も混乱し、気も動転して、これまでに経験した事も無い絶望感と屈辱…。
 今思いますのに、江戸時代、罪人を、まちなかを引き回して、さらし者にした「市中、引き回しの上…」と言うくだりを読んだ事がありますが、それは、手錠をかけられた姿を人前に晒す事によって、心理的な打撃、ダメージを与える為に計算された事だったのでは無いかと思えてなりません。

 取り調べ室に入れられた時の事は、何が何だか判らぬままで、記憶も、かなり飛んでしまっています。私の盗っていない説明等、全く聞かれる事も無く、調書の様なものをとられて、手錠をかけられたまま、すぐ近くの鉄格子の扉が開けられ、数メートル位の廊下を連行されました。
 そして、その先にある、またもう一つの鉄格子が開けられて、留置場に入り、さらに、少し歩かされて、13号の鉄格子の中へ、押し込まれる様に入れられました。

 今、思い出しても、いや、思い出したくも無い事ですが、思い出しても辛く…苦しい…具合が悪くなりそうな…絶望の淵へ突き落された様な精神状態でした。私は、まだ取り調べもされていないのに、南警察署の留置場(のちに、刑務官から、聞きもしないのに「ここは、代用監獄と言うんです」と、ご丁寧な説明を受けた。)に…、金を盗っていないのに、28日も留置される事になりました。


            あってはならない、信じられない刑事のウソとデッチ上げ

◎最初から、防犯カメラの映像に証拠が映っていると言って逮捕したのに、裁判になって…広島高裁での裁判では、私の方が、専門の鑑定業者に映像鑑定してもらうと、私が封筒に触れていない事が判った。

◎置き忘れられたとする封筒を手にして、場所を変え、金を抜き盗ったと決めつけていながら、封筒にも、封筒の中に残されていた所有者の住所、氏名が書いてある税金の納入書にも、私の指紋は全く付いていない事が判っていた筈なのに…逮捕した

◎「左手で左胸のポケットに、盗った金をねじ込んだ」と言って逮捕したのに、銀行に着て行ったシャツは、珍しくポケットの無い、半そで、アロハタイプの開襟シャツであった。

◎私は、盗っていないので、いくら金が入っていたかは全く知りませんから「なくなった金は、いくらですか」と聞くと、「言う訳にはいかない」と教えてくれず、いくら金が入っていたのかは、何回目かの取り調べの合間に、ポリグラフ(ウソ発見器のようなもので、事件に関する内容についての質問に、全て「いいえ」と答えるテスト)の検査の時、66,600円の、現金の内訳に関する質問で、金額を知る事になる。
◎取り調べは、全く取り調べではなく、私がいくら盗ってない事を説明しても、すべて聞き入れてくれず、「お前は、ウソばかり言っている!マスコミが報道したから、世間の人はお前を窃盗犯だと思っているんだ!!」等と言ったりして、私の無実の説明を調書に書いてもくれない。とにかく、最初から、刑事は、辻褄の合わない、私の窃盗ストーリを作文していて、何が何でも、強引に、それを認めさせ様とする有罪結論ありきのものだった。
◎最後に、私がお金を盗っていなかった事を証明したのに、刑事らは、なぜ真犯人を捜そうともしないのか?何故、事件を解決しようとしないのか…。

 以上、再び、憤りながら、今後も、私の様な冤罪被害者を出さない為にも、勇気を出して、真実を綴らせて頂きました。私の思いがミミズのたわごととならず、ご支援下されば幸いだと思います。そして、もうひとつ、私の事件に関わった警察、刑事らは、私が失った、さまざまなものや、失った人権などに対して、謝罪もなく、反省の言葉もないのは、無責任で、今後の為にも、あってはならない事ではないかと思っていますが…納得出来ないところです。

 この続きは次号で綴ります。

   越へ行かむ辛苦の坂を青嵐あおあらし   ひろし
   憂ひ事あるやにバナナ湾曲す   ひろし

 くれぐれもお体ご自愛下さい。

煙石 博

2021年4月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2021.4.1 ふるいけや・・・「銀輪は父の形見や楠若葉」

2021.4.1 ふるいけや・・・「銀輪は父の形見や楠若葉」

 世の中は相変わらずコロナ禍の混乱の中にあって、昔の様に、何とか穏やかな日常のライフスタイルを取り戻せないものかという、いらだちや、不安が募る日々が続いている様です。

 こんな中で、私事の66,600円の冤罪事件の事は、もう過去の出来事といいますか、風に吹かれた一本の毛の様な…。その昔、松尾芭蕉が詠んだ「古池や蛙飛び込む水の音」と言う俳句がありましたが、私の頭の中では「古い毛や風に吹かれて飛んでった」…、嗚呼…むなしい寂しいと言う思いです。

 そんな思いの中で、先日、家内と二人で、お昼にタクシーに乗りました。
 私が「近い所で申し訳ないのですが〇〇までお願いします。」と言うと、運転手さんは「いえいえ、どんなに近くても乗って頂けるだけで有り難いです。」と即答されました。「…あっ、そうか。長いコロナ禍の中で、タクシー業界も乗客が激減して、苦しい状態なんだ。」と、ハッとした事です。
 しばらく間があって「煙石さんでしょ?」「はい、そうです。」と答えると、「煙石さんの放送、いつも愉しませてもらっていました。」と言う話から…「それにしても、煙石さんは、本当にひどい目にあわれましたね。」という話の流れになって、私は、たまたま乗った乗客ではなく、あってはいけない66,600円の冤罪窃盗事件の真実を訴える語り部と相成りました。

 本当に、今思い起こしても、許せない出来事で、これは、私だけの問題ではない。他人事(ひとごと)にしてはいけない。明日、誰の身にでも降りかかって来る、とんでもない事だったんだと、改めて思います。

 思えば、私が、銀行の小さなローカル支店の狭いロビーで、封筒の中に入っていたとされた66,600円を盗ったとされた時、取り調べもされていないのに、テレビは、当日夕方と翌日、新聞は翌日。マスコミ各社は、警察発表をそのまま報じ、あえて『私達』、としますが、家族も親族も…私の知人、友人も、大変な人権被害や迷惑をこうむりました。のちに、当時の新聞記事を見ると、大きな見出しで、「中国放送元アナ銀行で置き引き」「元中国放送アナ置引容疑で逮捕」「中国放送元アナ 置き引き容疑」等と、記事にされており、「置き引き」と言う、何か妙な懐かしさを覚える用語と言うか、時代がかった用語に出合って、改めて辞書を開いてみました。

  置き引き → 待合室などで、置いてある他人の荷物を盗み去る事。
         置いてある他人の荷物をこっそりと、持ち逃げする事。

とあります。

 えらい体験をした私の気持ちから言えば、信用と信頼は充分あったつもりの私であっても、ひと度、マスコミに報じられると、もうダメです。
 マスコミにお願いするとしたら、事件報道の際には、警察発表をそのまま報じるのではなく、自らの足で取材を重ね、ウラを取り、出来る限り真実に近づいた内容を報じて欲しいと思います。特に私のような事件に関しては、その後の取材結果を伝え、裁判になれば、その裁判の経過を正しく伝えていく事も必要であるとも思います。
 そして、万が一、その報道が冤罪であれば、その被害者の人権回復に責任をもって頂く事も必要ではないかと、お願いを込めて…思っております。

 ところで、私の過去のブログ「2020.12.1 出汐町、比治山 そして旧陸軍被服支廠の事など…(記事はこちら→クリック)」や「2021.2.1 あの楠は歴史の語り部だった事(記事はこちら→クリック)」で取り上げた、楠と被服支廠をウオーキングの途中、写真に撮りました。



■1枚目の写真は、戦後残った旧陸軍被服支廠です。
 県立広島工業高校正門の右横より撮影。

◎写真の奥、向こうまで3棟、さらに、そこより、東へ2棟あります。
◎被服支廠の正門は、写真の建物手前、こちら側の右横あたりでした。




■2枚目の写真は、奥は県立広島工業高校の正門です。
 県立広島皆実高校正門へ向かう共同通学路の入り口より撮影。

◎写真の奥、突き当りに県工の正門とキャンパスがあって、そこから更に左に向かうと、皆実高校の正門とキャンパスがあります。
◎ここに写っている残された大きな楠は、戦後しばらく3本あって、今は向こう側の一本が伐られて、2本になっていますが、この楠の辺りに被爆前、皆実神社、伊勢神宮の分祠があって、その境内にあった神木の楠の様です。

※楠の左下に停めてある銀輪は、私の愛車(自転車)です。私の父の形見の自転車です。
◎右手奥に旧陸軍被服支廠の屋根が見えます。そして、右の白いフェンスの右向こう(表通りに面した位置)が、新しい広島県警南警察署となる用地です。

 フェンスに取り付けてあった建築計画のお知らせ表示板には「着工予定・令和3年11月。完了予定・令和5年7月31日」とあって「地上5階、地下1階 新築その他工事」とありました。ふと思うに、新しい署庁にも、勿論、私が28日不当勾留されていた、嫌だった留置場も、何処かにつくられると言う事でしょう…。

 思い出したくもない留置場での記憶は、以前『2016.11.15 思い出せば…怒り!その4 四畳半独房記  孤独と恐怖の留置場』のブログから、『2017.4.13 思い出せば怒り!その10 四畳半独房記 続 驚きの信じられない検察の対応』まで、として、7回にわたって書き留めておりますが、他にも、その時の非日常の世界の、おかしな体験を、近いうちに、もう少し書き残したいと思っております。

↓ ↓ ↓ 四畳半独房記 その4~その10はコチラです。 ↓ ↓ ↓

2016.11.15 思い出せば…怒り!その4 四畳半独房記
http://enseki.noor.jp/?p=2794 ← をクリック

2016年12月1日  思い出せば・・・怒り!その5 四畳半独房記 不安は増すばかり!!
http://enseki.noor.jp/?p=2809 ← をクリック

2017年1月15日  思い出せば・・・怒り! その6四畳半独房記 長い一日
http://enseki.noor.jp/?p=2934 ← をクリック

2017年1月27日  思い出せば・怒り! その7『四畳半独房記』 取り調べではない恐怖の自白の強要
http://enseki.noor.jp/?p=2945 ← をクリック

2017年4月3日 思い出せば・怒り! その8四畳半独房記 続:恐怖の取り調べ
http://enseki.noor.jp/?p=3326 ← をクリック

2017年4月8日 思い出せば・怒り! その9四畳半独房記 驚きの信じられない検察の対応
http://enseki.noor.jp/?p=3328 ← をクリック

2017.4.13 思い出せば怒り!その10 四畳半独房記
http://enseki.noor.jp/?p=3331 ← をクリック

 ところで、こちら西日本では、この冬は暖冬で、2月半ば頃からの早春よりこれまで、早くから暖かい日が多く、例年の様な季節の移ろいが急ぎ足で春本番へ向かった様な気がします。

   ウイルスの不安の空を燕來る   ひろし

 長い間、俳人の目で季節の移ろいを観察して来た私も、これらの事に、いささか、とまどっておりますが、桜の開花も随分早く、広島が3月11日と、全国で一番早く、観測史上2番目に早い開花となりました。そんな、急ぎ足の季節の移ろいのせいかどうか、春先からの、水仙、梅、椿、白木蓮、桃、馬酔木(あせび)、桜、山吹、等々…例年なら、それぞれ、咲く順番が何となくあって、それに従う様に咲いて、季節が進んで行くのが見えていましたが、今年は、ほとんどの花々が、例年の様な開花の順ではなく、そんな順とは関係なく、それぞれが、懸命に、「早く咲き始め、あわただしく花を散らして仕舞ったような」異様な感じすらしました。
 これは、私の、一人よがりの観察結果であれば…申し訳ありませんが…。
 とに角、「咲き急ぎ、散り急いで来た」様な気がしています。

 そんな、季節の移ろいの中にあって、私共人間も、知らない内に、心身共にバランスを崩していく事もありうるのではないかと憂慮しています。
 終息の見えないコロナ禍の不安や、イライラ、ストレスも重なっています。呉々も、お身体ご自愛、ご大切になさって下さい。

※今年も、広島市南区の花の山比治山と、桜吹雪の中の冨士見展望台にある正岡子規の「鶯の口の先なり三萬戸」の句碑を訪ね、毎年、立ち寄るのですが、陸軍墓地にお参りさせて頂きました
拙句ですが、

   花の冷え散りし兵士の墓数多あまた   ひろし
   花万朶はなばんだ五濁ごじょく悪世あくせの淵へ喝     ひろし

煙石 博

2021年3月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2021年3月1日  悟りは脚下にあり! 「コロナに足をすくわれてたまるか‼」

2021年3月1日    悟りは脚下にあり! 「コロナに足をすくわれてたまるか‼」


 コロナに振り回され続けて、随分長いような…。いや、思い返してみると、日本でのその話の始まりは、まだ1年余り前の事なのに、とても、長い時間の経過を感じます。

 そう言えば、昨年の旧正月、1月25日より前。どうも、中国の武漢という所で、新型コロナウイルスによる感染症が発生し、次第に大変な状況になっている事がニュースで報じられていましたが、その後、よもや、世界中をこんなに震撼させる大疫病騒ぎになろうとは…。

 また、同じ頃、ダイヤモンドプリンセス号の乗客から罹患者が発見されてからの混乱も、日本人には、まだ対岸の火事、他人事ひとごとと言う感じであった事も思い出します。

 街中にマスク姿が増えたので、2020年4月1日の私のブログのタイトルも、『ムーンライト・マスクマン…月光仮面…コロナはクルナ!!』とあり(2020年4月1日のブログを読む)、その後、よもや、今の様な展開になろうとは全く思っておりませんでした。今や、あの手この手のコロナ対策が、1日も早く功を奏する事を願うばかりです。

 とにかく、この様な、混乱に混乱の中で、ふと思う事に、「脚下照顧」…まず、自分の足元を見て、自分の事を戒めなければならないという禅の言葉だと思いますが、この言葉から、私流の思いに解釈し、「悟りは脚下にあり」で、この様な混乱の時にこそ、脚下をしっかりと見据えて、冷静沈着な心で、身の周りの出来事を、大所高所から見る物差しで計らなければならないと思ったりするところです。

 しかし、この混乱と不安の世の中で、「うろたえてはいけない」と思いつつ、「思慮深く…思慮深く…」と、自らに言い聞かせながらも、実は私も、うろたえているのではないかと自信がありません。

     真直ぐなる覚悟真白き雪中花  ひろし

 本当に、日本も世界も、われわれは、コロナ、コロナに心を奪われ、心乱されて、混乱状態にあるとしか見えません。果たして、もの事も正常なる判断がなされているのか…、そして行くのか…。不安な気持ちでいるのは、私だけで無ければ「共感相和す」とでもいう、表現が出来るかどうか…不安な思いの慰めにしたいところです。

 そういえば、餅まきに参加した時、投げる人の方ばかり見上げていては、餅は拾えない。ひたすら、最初から、自分の足元あたりをしっかり見ていれば、落ちた餅が転がって来て、沢山拾う事ができます。

     春近し千辛万苦せんしんばんく越へ行かむ  ひろし

 ところで、前号(2021.2.1.あの楠は歴史の語り部だった事。「丹那橋に行ってきたんよ」…?)で、南区出汐町に新築される広島県警南警察署の工事が、まもなく始まるでしょうと書きましたが、先日、ウオーキングの時、よく見ると「広島南警察署庁新築その他工事のお知らせ」という掲示があって、「着工予定・令和3年11月1日。完了予定・令和5年7月31日」とありました。(2021年2月1日のブログを読む

 着工は、今年の秋頃よりという事のようです。

 それと、私の冤罪事件が、少し前、日刊現代の1月9日付と、1月16日付けの紙面に掲載されました。[前編]と[後編]の紙面を添付させていただきます。(クリックすると拡大されます。)

 アフターコロナ等といいますが、早くコロナ禍が収まって、人と人との輪、そして、人とのよき絆のある日常が帰って来る事を願います。

 お身体、くれぐれもご自愛なさってください。              煙石博

日刊ゲンダイ 2021年1月9日掲載分
日刊ゲンダイ 2021年1月9日掲載分
2021年2月28日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020.2.1  あの楠は歴史の語り部だった事 。 「丹那橋たんなばしに行って来たんよ。」…?

2021年2月1日  あの楠は歴史の語り部だった事 。 「丹那橋たんなばしに行って来たんよ。」…?

 前号(2021年1月1日)で、日刊ゲンダイ(駅の売店やコンビニで販売)の1月9日(土)付けに続き、1月16日(土)付けの紙面、「『告白』あの事件の当事者」の中で「煙石博アナ窃盗冤罪事件」として私の冤罪事件が掲載されました。まだお読みになっていらっしゃらない方がありましたら、日刊ゲンダイDIGITALのサイト、「政治・社会>事件」にある「『告白』あの事件の当事者」(https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/3416でしばらくの間、読んで頂く事ができます。
 (直接リンクはコチラ → 煙石博アナ窃盗冤罪事件 前編
            → 煙石博アナ窃盗冤罪事件 後編

 それと、もうひとつ、去年11月26日(木)に、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった弁護士の久保豊年先生が、広島弁護士会主催の「市民法律講座」の第3回で、「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」と題して話をされ、日本の司法制度の問題点を指摘されましたが、私も少し話をさせて頂きました。この模様が12月6日(日)のTSSテレビ新広島のニュースで伝えられました。


 ところで、昨年2020年12月1日のブログ「出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…」の所で、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く通学路にある、楠の大樹2本について少し書きました。あれは、被服支廠が出来た頃植えられた様で、被爆前まであった皆実神社、伊
 ところで、昨年2020年12月1日のブログ「出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…」の所で、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く通学路にある、楠の大樹2本について少し書きました。あれは、被服支廠が出来た頃植えられた様で、被爆前まであった皆実神社、伊勢神宮分祠の境内に植えられていた神木で、その残された2本(終戦後3本残されて、後に1本伐られ、現在は2本が残されているもの)であった事を綴りました。

 実は、昨年の暮れ、たまたま、中区の袋町小学校の所にある市民交流プラザのロビーで開かれていた、被服支廠の写真展を見ました。それがきっかけで、戦前、母親が出汐町の被服支廠に勤めていたと言う女性から、被服支廠には、働く女性の為に保育園もあって、ご自身もそこに預けられていた様でしたから、伺ってみると、確かに、その神社は、被服支廠の入り口の近くにあった様で、多くの人が、社のある左側に向かって参拝して入っていた事を話して下さいました。
 それを知った私も、改めて、かの大樹の下にって仰ぎ見ると、時代の風雪に耐えて成長してきた楠が、とても重い何かを語りかけて来る様な思いがして目頭が熱くなりました。

 この訳知り顔でもある楠の大樹に、これから先の、なお良き広島の平和な未来を見届けて欲しいと願うばかりですが、少年時代、あの辺りでも遊んでいた私も、子供心ながら、あんな場所に何故あんなに大きな楠があるのか…気に掛かってもいたものですから、積年の謎が解けた様な気持ちで、改めて、歴史の重みを感じるところです。

 考えてみれば、あの辺りは、その昔、海が埋め立てられて出来た、何も無い新開地だったでしょうから、そこに出来た、当時、日本の最新技術をもって造られた洋風レンガ造りの鉄筋コンクリートの建物は、際立つ存在の建造物群でもあった事でしょう。

 つまり、その正門辺りにあった神社の境内に植えられ…戦後、2本だけ今に残された楠は、明治、大正に続く昭和の戦前、戦中、さらに被爆、終戦、そして、その後の長かった昭和の戦後復興から、今日に至る歴史に身を委ねて来た貴重な語り部でもあった訳です。

     水仙や空いっぱいにちぎれ雲   ひろし

 さてさて、これは、前のブログでも触れましたが、この楠のすぐ西側の大通りに面した辺りに、私が、不当逮捕・勾留された広島県警南警察署が移転する事になっていて、昨年末に平地にされ、まもなく、南警察署の新築工事が始まる様です。

 さらば…丹那たんなの南署…となる訳ですが、私は、埋め立てられた丹那に南警察署が出来る以前の、父や母の愛にも似た、優しく豊かだった海があった事を知っている者です。そこは、少年時代の遊び場でもあったふる里の良き思い出あふれる地であったのですが、今となっては、今ある南署の建物が無くなっても、少年時代のかけがえの無い思い出を壊されたばかりでなく、むしろ、私にとっては消す事の出来ない悪夢の蘇る所となりました。それも、私が受けた大きな人生の心のキズと共に、生涯癒される事は無く、唇を噛む無念な思いが残るところです。

 今、南署がある丹那の土手あたりは、一般には、格好のウォーキングコースでもあり、私も定年後のウォーキングコースのひとつにしておりましたが、私は、この南署に不当勾留された忌まわしい体験によって、あれ以後、あの辺りを遠くから見るだけでも、今でも怒りと憤りが込み上げ、大変、不愉快で具合が悪くなりそうです。
 あれから8年経ちましたが、今でも、今の南署辺りには1センチたりとも近寄りたくないダーティーゾーンである事に変わりありません。

     風花や悲嘆に暮れし日もくや     ひろし

 これは、酔余の夜咄になりましょうか…、昔、友人と一緒に立ち寄ったスタンド(飲み屋)で、聞くとはなく聞いたのですが、常連らしきお客さん二人がこんな会話をしていました。

 男性A「あんたあ(貴方は)、顔を見んかったが、どうしとったんや(何をしていたのか)。具合でも悪かったんかいの?」

 男性B「いやいや、体は悪うないんじゃが、ちょっと、丹那橋に行って来たんよ。」

 丹那橋は、私の家の近くある橋の名前だったもので、それを、こんな意外な所で耳にした私は… 「丹那橋に行って来たんよ」とは…?ハテ…?
 そのあと、2人は、何かお金の事で、ああだこうだと、ヒソヒソ話をしていた様でしたが、「丹那橋に行って来た」という意味が理解出来ませんでした。
 賢明な皆様は、ピンと察しが付かれたかと思いますが、私が南署の留置所に入れられた事で、それが理解出来ました。

 つまり、丹那橋は南署のそばにありますから、そこの留置所に入っていたと言いたくないので、「丹那橋に行って来た」という表現にした、隠語?・合言葉だったのではないかと想像するところです。蛇足ながら、南署が移転した後は、この「丹那橋に行って来た」と言う隠語に代わって、何か新しい言葉が生まれる…のかどうか…。

     風はまだ冷たく香り梅日和      ひろし

 コロナが早く収まってくれる事を願うばかりです。お身体大切にご自愛下さいますように。

                                 煙石 博

2021年2月1日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2021年1月1日  牛根性・モウ根性     黎明の富士に始まる初暦   ひろし

2021年1月1日  牛根性・モウ根性     黎明の富士に始まる初暦   ひろし

 新しき年の始めに…、と書き始めて、ふと思うのですが、考えてみると、何が新しいのか、昨日も今日も、そして明日も、同じ毎日が続いて行くだけの事であり、それを人が作った暦で『新年』と押し付けられても、新しくも何とも無い…とは思いますが、1日の始まりは、お天道様が昇る処から始まって、その日を無事過ごさせて頂き、そのお天道様が、必ず沈む事によって、とりあえず1日の終わりを教えられる訳です。

 それがなければ、それこそ、ひとりの人間が眠る事無く、ず~っと起き続け…働かされるとなると、これは、たまらない。日が昇り、日が沈むと言う、大きな自然の摂理の中に日々生かされていると言うお陰を感じ、その日々の積み重ねの先にある365日と言う1年の括りは、生きている限り、前に向かって歩いて行く為の一里塚の様なものか…。

しばしば、引用されますが、時代変わっても、今の私共に思いが伝わって来る、一休禅師の狂歌と、高浜虚子の俳句が思い出されます。

  門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし   一休
  去年こぞ今年ことし貫く棒の如きもの  虚子

 何はともあれ、新しい年を迎え、明けましておめでとうございます。
昨年は、本当に、コロナに振り回された1年でしたが、今年は、何とか早くこれを乗り越えて、平穏な日常が戻って来る事を望むばかりです。
 昔、若い人達が、「あけましておめでとうございます」を「あけおめ」と、つづめて使って、その言葉が一時とびかった事があったのも…遠い昔の話になりますが、定着しなかった様で…。 私は、昔、逢う人ごとに「あけましておめでとうございます」と言うお決まりの挨拶に疲れ…「あけましておめでとうございます」と挨拶された方へ、その人の気を引こうと、「あけたら…閉めてください」と返して、相手の冷たいリアクションを、ひとり楽しんでいた事もありました。
 ところで、今年は丑年。今では「子・丑・寅…」の、十二支を言えない若者も多くなっている様でもあり、丑年だからどうと言うものではありませんが、この十二支の干支が、毎年変わるので、変わり映えのしない新年が「今年は丑年かぁ…。」と、何となく、心新たに迎える一年の始まりを意識させられるようでもあります。
 只、干支は社会生活に関係ないので、すぐに、今年の干支が何だったか忘れてしまって、「今年の干支は何でしたかねぇ。」と聞かれて、えと・・だけに?…。」と、答えに窮したりして…。

 余談ですが、昔々、街角の易者の、「丑年生まれの人は~、辛抱強く、根気よく、言葉少なく、信用もあり、スローに過ぎるが玉にキズなり。牛根性、モウ根性、テコでも動かないのが丑年生まれの人~」という口上を思い出す私は、やはり、「古いヤツ…ですなぁ~」 

それにしても大変な正月になったもんで、色々、自粛要請に従ったコロナ禍の正月ではありますが、考えてみますと、正月も時代と共に姿を変えて来ました。
 昭和21年(1946年)生まれの私が子供の頃は、戦後の貧しい時代でしたから、日々の食事も本当に貧しいもので、ご馳走を食べるのは、盆と正月くらいなものでした。
 ですから、正月は、おふくろが作った質素なおせちでしたが、それは、非日常の、晴れの大ご馳走…。のちに、それを経験しているお年寄り…は、「今頃は、毎日、盆と正月が来た様なご馳走を食うとる」と言っていました。また、正月の3日、肉の少ないスキヤキでしたが、『スキヤキ』が出た時には、飛び上らんばかりのご馳走でした。

 又、正月がレジャー化し始めたのは、のちの高度成長期からだった様な…。それまでは、家か近場で、静かに過ごす正月で、たまに、1月3日に映画に連れて行ってもらった記憶があります。

 ともかくも、今年は、コロナを意識しての不自由な正月ではありますが、ふと『寝正月』という言葉を思い出しました。思い返してみると、昔の新年は、自らをリセットして、心新たに「1年の計は、元旦にあり!」と、年ごとに、再出発を心掛けようとする正月でもあったような。しかし、時代変わって、長らくレジャー化し、慌ただしく賑やかな正月に慣れてきましたので、ここで「寝正月」と言うと、懐かしく古めかしい正月スタイルの様にも感じる処です。 「地獄極楽は心にあり」…心の持ち方ひとつ…心の持ちようで、古典的な?『寝正月』もまた、至福の新年。佳き一年のはじめとしたいものです。 「1年の計は、元旦にあり!」何か懐かしい言葉、と思う方は、いらっしゃいませんか。今や「1年の計は…簡単である!?」
酔余の句です。

    酒あらば鬼に金棒寝正月    ひろし
    父母も猫も祖父母も寝正月   ひろし
    朝酒ののちは至福の寝正月   ひろし (笑)
 ※「食べてすぐ寝ると牛になるよ~(笑)」と、子供の頃、よく言われませんでしたか?
 丑年で思い出しましたが、こんな狂歌もあったような…。

   この世をばしと思えばつらけれどと思えば食うてもみたし


  ニュース
●『日刊ゲンダイ』の紙面で、私の冤罪事件が、今のところ予定ですが、1月9日(土)と、翌週1月16日(土)、前・後2回にわたって記事になる予定です。(ひょっとすると、少し後になるかも知れませんが)

●私の冤罪を、記事で支援して下さった『冤罪File』、しばらく店頭に出てなくて、心配していましたが、昨年の年末に、本屋さんで、よく調べて頂きましたところ、1月末に、次号が出る予定と分かりました。ペンの力を期待しています


最後になりますが、新年の私の年賀状を掲載いたします。

今年は、人類の叡智を集め、何としてもコロナを乗り越え、平穏な世界が戻って欲しいと祈るばかりです。

今年は、人類の叡智を集め、何としてもコロナを乗り越え、平穏な世界が戻って欲しいと祈るばかりです。

2020年12月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020年12月1日   出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…

2020年12月1日   出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…

 11月26日(木)に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」に多くの方のご参加ありがとうございました。コロナ対策で一席ずつ空けてのソーシャルディスタンスで、会場は、ほぼ満席の80人近くの皆さんで埋まりました。

 久保先生は世界の有罪率等の、例を挙げ、とても分かりやすく、問題点を指摘されました。「…起訴されると、99.9%有罪と言う数字は、考えても恐ろしい事…この数字は、たくさんの冤罪被害者を生み出しているという事でもありましょうか、日本の警察・司法のあり方は、国際的にもその問題点を指摘されていて…」等と言う様なお話をされました。

 先生のお話の後、私にも少し話をと言う段取りでしたので、お礼の気持ちなどを話そうと思っておりましたら、本番では、思っていたより、かなり早い時間にマイクを受ける事になって、本当のところ、内心少し慌てましたが、あれでもと思って、持参していた冤罪関係の本、数冊を、とっさに手にして登壇しました。

 まず、元厚生労働省の冤罪被害者、村木厚子さんの「私は負けない」の中より、「あってはならないフロッピー改ざんの事や、事実と異なる供述調書が沢山作られていた問題…。罪を認めない人が、いつまでも身柄拘束されるのは問題であり、それが、本人と家族の生活を、どれだけ破壊する事なのか、検察と裁判所は、本当に理解しているんでしょうか。」等を紹介しました。

 次は、弘中惇一郎先生の著書「無罪請負人」から、シャラップ発言を紹介。2013年5月、スイスのジュネーブで開かれた国連拷問禁止委員会の席上、委員が、「日本の刑事司法は中世に近い。」と言って「取り調べに弁護人の立ち合いがないと、誤った自白が行なわれるのではないか。自白に頼りすぎる取り調べは、中世のなごりだ。日本の刑事手続きを国際水準に合わせる必要がある。」と指摘すると、日本の人権人道大使は、「この分野で日本は世界一の人権先進国だ。」と反論した。これに、会場から苦笑、失笑が漏れると、日本の大使は、「何がおかしい。笑うな。シャラップ‼シャラップ‼」と叫んで、その場にいた参加者をあきれさせた。(このシーンは、私もテレビニュースで見て、驚きました。)更に、委員会は、日本への勧告として代用監獄(留置場)、自白強要、独房への監禁、死刑などの問題をあげた。…日本の刑事司法の現実は、前近代的であり、国際基準に照らしても相当遅れている事は確かである…。」を紹介。

 そして、日本で多くの冤罪事件に取り組んでこられた、弁護士の今村核先生の「冤罪と裁判・冤罪弁護士が語る真実」より、有罪率99.9%について「職業裁判官にとって、被告人に判決を言い渡すことは日常のことであり、週のうち2日ぐらいは、判決を言い渡している。そのほとんどは有罪判決であり、最高裁が毎年発表する司法統計年表によれば、全起訴人員のうち、有罪判決を言い渡される被告人は約99.9%である。無罪は1000人にひとりだ。総じて言えば、職業裁判官は、『有罪への流れ作業』に慣れ親しんでおり、検察官の起訴内容を、検察官が請求した証拠により、そのまま認定するのが彼らの日常となっている。」他、問題ある裁きの実態などの所を紹介しました。

 そして、久保先生へのお礼と、私が、冤罪被害者になって、絶望と孤独の中にある時、私の無実を信じて、「ひとごとではない。あすは我が身。許されない!」と声をかけて下さり、支援して下さった多くの皆様にお礼を申し上げました。

 久保先生が、最後の所で、日本の人質司法はよくないので、「起訴前保釈制度」を作ってほしい事と、「弁護人の取り調べ立会制度」を認めてほしい事を話されました。
 私も冤罪を生みださない為に役立つ制度だと思います。

 思いますに、私が、この冤罪を通して勉強させて頂いた事の一つに、薄れて行く、人と人との絆がいかに大切なものであるかと言う事を身をもって知りました。

    悲を耐へて小さき仕合わせ野紺菊のこんぎく      ひろし

    人肌の恋し鳩居のを開く         ひろし

 ところで、前号で、広島県警南警察署が南区出汐町(広島県立広島工業高等学校、広島県立広島皆実高等学校の入り口あたり)に引っ越すらしいと言う事で、南署での四畳半独房日記を書き始めましたが、移転先に当たる出汐町の警察官舎の、解体作業が思っていたより早く、既に終わって更地にされましたので、独房日記の続きは、次号にして、今日は、南警察署が引っ越す出汐町あたりの事について思いが昂り、書かせて頂きます。

 出汐町は、今は市街地の真っ只中にある町となっていますが、出る汐と書いて、出汐と言う町名にされたのは…、これは広島の旧市街地のほとんどが、干拓に次ぐ干拓で、歴史は遡って、毛利、福島正則、特に江戸時代250年の長い浅野藩時代には、大規模な海の干拓が進められ、更に明治には、宇品地域の広大な埋め立てによって出来たと言う歴史があります。

 そもそも、出汐町のすぐそばにある比治山も、古来より、広島湾内にある島の1つでしたが、江戸時代中頃までには埋め立てられ、広島城下と陸続きになったものです。
 話は少し横道に入りますが、その比治山の南麓では、昭和7年(1932年)、軍の連隊施設の工事中に、縄文時代の石器、土器、貝塚が出土して発掘調査が行われたと言う記録が残っており、戦後、昭和25年(1950年)比治山貝塚として、県の史跡に指定されて世に知られる処となりました。実は、私も若いころ、居酒屋の広島の地雀、物知りのお年寄り達から、「比治山の周囲には、他にも何ケ所かの貝塚らしきものがあった」と聞いております。また、この比治山は、広島城から見ると、虎が臥(ふ)せている様にも見えるので、臥虎山(がこざん)と親しみを込めて呼ばれてもおりました。
 (※私の作詞、佐伯金次郎作曲、新宅未奈子唄の「比治山慕情」を、カラオケで、聴くだけでも、かけて頂くと、わずかですが、私に、数円の印税が入ります。)

 話は本筋に戻ります。つまり、比治山は、江戸時代半ば迄には、広島城下と陸続きになったものですが、埋め立てられても、その当時も、すぐそばには、京橋川が広島湾へと流れ込んでいたと思います。今の進徳女子高校や県立広島工業高校、県立広島皆実高校あたりは、川に向けても、寄す潮、引く潮が身近な地であったので、それにちなんで、出汐町と言う地名が付けられたのだろうと思いますが、語源を見ると、潮は、しおの干満で、本来は朝方に起こる干満の変化、また、高くなる方のしお。朝潮。満ち潮。
 対して汐は、しおの干満で、本来は夕方に起こる変化、また、低くなる方のしお。引き汐。夕汐。例→汐干狩り。月の出汐。出汐(いでしお、でしお)は、月の出と共にさしてくる、満ちてくる汐。おもんばかってみると、夕日が美しく沈む、有難い西方浄土の方角が望める位置にある、昔、海だったところにちなんで、出汐…色々、その昔がしのばれる、町の名です。

 広島県警南警察署は、その出汐町に移転するのですが、そのすぐ南側には、近年、被爆建物として保存の声が高まっている、赤レンガの旧陸軍被服支廠が、4棟ほど残っております。今でこそ、宅地に囲まれておりますが、私が子供のころは、(半世紀以上も昔の話になりますが…)4棟残された建物の南側は、見渡す限りの蓮田(はすだ、レンコン田)で、建物の西側も、蓮田か畑ではなかったかと思います。あの辺りは、人家の無い寂しい所で、私共、子供の遊び場でもありましたが、西側の3棟のうち、建物と建物の間の広場に、結構大きくて深そうな防火用水だったのか?水槽があって、そこで、魚釣りもしたり、(ヒブナか、鯉が育っているらしくて、私は釣り上げる事はありませんでしたが、なにしろ、終戦後の、物も無い、お金も無い、子供もひもじい時代でしたから、それを釣り上げ、どこかへ売りに行って、小遣い銭にしていた年長坊主もいたと聞いていました。)

 あの辺りで日暮れまで遊んだりもしていましたが、その事を親に話したら、強い口調で、「あの辺りは、ひとけが無い所だから、子供が遊んではいけない。」と、諭されました。のちに、安全上の問題と衛生面の事からでしょう、取り壊されて、埋められました。

 話は、戻りますが、私は、随分前から、あの建造物は、被爆建物でもありますが、それ以前の歴史を語る歴史的建造物として保存する価値があるのではないかと思っていましたし、機会ある毎に、人にも、その事を話しておりました。あの赤レンガ造りの建物群は、大正2年(1913年)に完成した物で、現存する最も古い鉄筋コンクリート造りの建物として評価されていい建築物ではないかと思っています。

 明治以降の日本は、欧米の文明を取り入れて近代化を進めた時代であり、レンガは、文明開化を象徴する物として扱われ、その時代を物語るのが、この洋風の、赤レンガ造りの建造物であるとも思います。そもそも、赤レンガ1つをとっても、明治の初めは、日本で製造する技術はなく、イギリスからの輸入に頼っていた様ですが、日本人も、その技術を習得して、国産レンガが作られる様になりました。国産レンガの産地のひとつに、蛸壺造りの技術があった広島の安芸津が全国に名を馳せました。被服支廠のレンガは純国産の一級品、安芸津産の物ではないか?と思いますが、近代化遺産としても、明治、大正、昭和の歴史を物語る歴史的建造物群でもあるので、保存する価値がある物だと思う訳です。

 最後に、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く、幅広い通学路の中ほどに、昔は3本だけ残されていましたが、今は、2本となった大きな楠が、堂々と枝葉を拡げています。この2本の楠は、実は、あそこには、被爆の前まで、あの辺りの新開地の守り神だったのでしょう、皆実神社、伊勢神宮の分祠があって、その参道にあったものの様です。残された2本の楠の大樹は、大正、戦前の昭和、そして被爆の惨状を目のあたりにした歴史の語り部でもあり、この地の戦後の復興を見守ってきた証人とも言えましょう。今は被爆樹の一つにもなっています。

 今年は被服支廠保存の声が高まりましたが、今年の夏の、私の拙句です。

    物言はぬ声八月の被服支廠    ひろし

 今年の冬が穏やかであってくれればと願います。

    十二月雑踏に我が孤独の灯    ひろし

 皆様におかれましても、お身体くれぐれもお大事になさって下さい。

                              煙石 博

2020年11月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien

2020.11.1 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)

2020年11月1日 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)

 前回のブログで、11月に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」のパンフレット・参加申し込み書をご案内しましたが、その3回目の講座【11/26(木)18:00~19:30】で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」がある事をお知らせしました。これにつきましては、久保先生が、私の冤罪のケースを素材にお話されるという事のご報告と、お時間が許す方は、ご参加下されば…と言う思いで、パンフレットをご案内させて頂いたものでしたが、ブログをお読みになって「参加したいのですが、都合付かず申し訳ありません。」という丁寧なご返事を頂いた方もあり、余計な心のご負担をおかけし、申し訳ありませんでした。
 ところで、もう一つ前回のブログの最後に、「四畳半独房日記より」として、広島県警南警察署の留置場の(広島市南区丹那町)、私が入れられた独居房13号…の事について綴りましたが、この余白部分で、もう少し書かせて頂きます。

 さて、留置場は、入ってまず一番手前が1号、次が2号で、確か、3・4が無くて、13号、その隣が、雑居房の5号、6号、その奥が7号であったのか…そこには、上半身?入れ墨を入れた方が(入浴の時などで、チラと拝見しました。)入っていました。なにしろ、留置場内をじっくり確認して歩く訳にもいかず、しかも、私自身が大変な状態にある訳ですから、そんな事に気を留める余裕もありませんで…その様な部屋割ではなかったか…と思います。私が入れられたのは独房の13号でしたが、私より前に冤罪被害に遭われた元厚生労働省の村木厚子さんも、何故か、同じ13号だったと知りました。

 私の居た独房13号を、四畳半と表現しましたが、これは、一番奥の、タタミ1畳分のスペースの半畳分が、古典的な和式便所になっていて、残りの半畳分は、便所の鉄扉の開閉の為に必要なスペースで、板の間になっていました。その和式トイレの部分は、目の荒いセメントが塗られていて、ナメクジでも這って居そうな湿気の多い、薄気味悪い一角で、鉄格子の向こうの刑務官から私が見える様に、上半身部分はガラス張りで、その下は、下半身だけ隠れる程の壁になっていました。
 そのトイレ部分のこちらは、ビニル畳(ネチャネチャとする感じのもの)を横に3枚並べてある寝起きのスペースですが、鉄格子の出入り口の所は、タタミ一畳くらいのスペースがあって、その三分の一くらいが、食事や水などを差し入れる為の板張りになっていました。つまり、寝起きのスペースは、大雑把に長方形の薄暗い四畳半という感じでした。この、天井の高いコンクリート打ち抜きの様な冷たい鉄格子の部屋は、夜には、ゴーゴーと吹きぬけて行く風の音が聞こえ、不気味でもありました。ここは海の方から吹いてくる風の道…の様です。10月はそうでもなかったのですが、私の誕生日の11月2日頃には、夜が更けるとシンシンと冷えて、さらに不安が募りました。

 私は、広島生まれの広島育ち、この土地で生まれ育ったので、丹那たんなに南署が出来る前、その辺りから、風光明媚な遠浅の入り江の様な海が広がっていた事を知っています。
 そこは、私の子供の頃の遊び場でもありましたが、魚、海苔、かに、シャコ、わかめ、あさり等の豊かな漁場でもあり、のちに廃線となりましたが、国鉄(JR)宇品線ルートの途中にありました。

 広島駅の0番線ホームを発車した汽車は(SLが走り、後にガソリンカーも走って…)大洲、段原を抜け、出汐町の今の広大病院の前を通り、宇品へ向かっていましたが、今の広大病院がある所は、戦前、軍の兵器支廠があった所で、終戦後は、長らく広島県庁が移転して来ていました。県庁の入口に、木造の結構大きな上大河(かみおおこう)駅があり、その駅前には、広電のボンネットバスが、くるりと回ってやって来るハイカラなロータリーがあって、暮らしの匂いのする賑やかな町がありました。
 県庁が現在の基町に移転した後は、広大病院が出来て今に至っています。

 宇品線は、その上大河(かみおおこう)駅から、さらに南の、私の住んで居る町の下大河(しもおおこう)駅、そして、小さな無人駅の丹那…終点の宇品へと延びていました。

 この丹那沖の豊かな干潟は、釣り場でもあり、春には、宇品線に乗って潮干狩りにやって来る人で賑わい、夏には海水浴も出来た所です。
 その後、丹那橋(たんなばし)から遥か沖までの入り江は埋め立てられ、マツダの宇品工場が出来ますが、その扇形の広い埋め立て地の一丁目一番地に当たる様な所に、広島県警南警察署が出来ました。そこは埋め立て地の丹那橋のたもと辺りになります。

 そんな訳で、私の子供の頃の、愉しく青い夢を育んだ思い出のエリアで、よもや、晩年になって、こんな目に遭わされ様とは…悔しくも、切ない涙が…溢れます。無罪を勝ち取った後、今でも、南警察署に近づくのも嫌で、大変な苦痛を覚え、あの留置場での28日間の忌まわしい記憶を拭い去る事は出来ません。
 実は、以前、新聞で読みましたが、その南警察署が、数年後、南区出汐町の広島県立工業高校そばの、県警官舎跡に移転するそうで、既に官舎の取り壊しが進められています。…次回へ続く…。

■■以下は、留置場で書いた覚え書き、日記より■■
2012.10.16(火)、今日は、AM10時より、ポリグラフ検査(嘘発見器の様なもの)を受けた。検査中、少し開けた窓から秋風が吹き込み、しばらく外の空気を吸う事が出来て、ちょっぴり、ほっとする。秋晴れ。私は、お金を盗って居ないので、ポリグラフ検査に異常が出る訳は無いと…自信を持っている。担当官から「結果は、取り調べが全て終わるまで明らかに出来ない。」と言われた。(今思えば、これも、とても妙な話ではあります。)

    秋の空うそ偽りの無き高さ   ひろし
     10.16(火)の夜に記した句 これは、近作の拙句ですが…

    青春の日々は遥かな青林檎   ひろし

 寒さに向かいますが、くれぐれもお身体ご大切になさって下さい。
                                         煙石 博

2020年10月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien