思い出せば・・・怒り! その6四畳半独房記 長い一日

2017年1月15日  思い出せば・・・怒り! その6四畳半独房記 長い一日  必読!!

 

2012年10月13日(土)
※土日は面会がない為、筆記用具が届いていなかったので、以下の事は、月曜日に届いたメモ帳に、午後、思い出しながらメモしたものです。

前日の12日(金)の夕方、明日、広島地検での取り調べの為に南署を出る時の恰好(顔を隠す布と手錠を隠す布)をどうするか決めておくように言われ、テレビでよく見るシーンが思い浮かびました。やってもないのに犯罪者の様に報道される事が不安で、一晩中あれこれ考えましたが、朝になっても結論が出ませんでした。
朝9時前、広島地検へ護送される数人が鉄格子の前に並んだ時、ふと「私はお金を盗っていないのだから、顔や手錠を隠すのはかえっておかしいのではないか。」と我に返り、「顔や手錠を隠さないで堂々と出た方がいい。」と、その時、決断しました。
しばらくすると、看守が隠す布をどうするかと聞いたので、「いりません。」と答えて、留置場を出て護送車へ向かいました。ところが予想に反して、マスコミは一社もいませんでした。不安で一晩眠れないほど悩んだのは何だったんだろう・・・と奇妙な安堵をしました。しかし、これから向かう広島地検の前で、マスコミのフラッシュ攻撃にあうのだろうかと、さらに心配になりました。
南署から朝9時に護送車に乗せられ、上八丁堀の広島地検に向かいましたが、広島地検の前にもマスコミは一社もいませんでした。

護送車は広島地検の裏手の地下へ車ごと入り、5部屋くらいある鉄格子の待合室の一番奥の部屋に手錠を外されて入れられました。待合室は4人がけの椅子と、トイレがあるだけの部屋でした。
そこで随分待たされ、他の人は次々呼ばれていくのに、私はお昼の弁当が配られても、いつまで待っても呼ばれませんでした。いつ呼ばれても良いように弁当を食べずにいましたが、1時を過ぎた頃、食べるのを控えていた弁当を食べかけた時、やっと「13号」と私の番号が呼ばれました。

再び手錠をかけられ、上階のMという女性担当官の部屋に連れて行かれ、「自分の窃盗罪について反論せよ」という“弁解申し立て”をしました。
「逮捕に来た刑事から、私は広銀大河支店で、前の人が記帳台に置き忘れた封筒から、現金を抜いて盗ったと言われましたが、お金を盗ってはいません。ただ、私には見せてくれないのですが、刑事に何回も防犯カメラの映像に盗っている証拠がある、と言われましたので、ひょっとしたら封筒を見たかもしれませんが、その記憶はありません。しかし、私は絶対にお金を盗ってはいません。」などと答えたように思います。

女性担当官への弁解申し立てが終わってからも、随分待たされました。夕方5時頃になり再び護送車に乗せられ、今度は広島地検の隣にある裁判所へ連れて行かれ、一階の部屋で、またしばらく待たされました。その後、F裁判官がやって来て、「被害者への反論はこれでいいですか。」と確認され、拇印を押しました。それから、勾留の注意が書いてある部屋でまたしばらく待たされた後、10日間の勾留を言い渡されました。
私は女性担当官へお金を盗っていない事を正直に話したのですが、私の言い分が全く聞いてもらえなかった事に納得がいかず、大きなショックを受けました。

連日の不眠と、朝から広島地検に行き、重苦しい緊張と不安の中で、長時間待たされた上、正直に申し立てをしたのに、それが伝わらないという結果、心身ともにくたくたになりました。南署へ戻ってきたのは確か夜8時頃。5時に渡される弁当を差し出され、箸をのばしましたが、お金を盗んでもいないのに、窃盗の濡れ衣をわかってもらえない悔しさと、これからの不安が一杯で、食事はのどを通りませんでした。
長く・・・とても長く感じた一日でした。   ・・・続く・・・

煙石 博

2017年1月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien