2019.10.1  秋風や・・・

2019.10.1 秋風や・・・

相変わらず、私共の身の周りの事から、日本も世界も、過激で、ぎくしゃくした出来事が相次ぎ、中々、穏やかな気持ちでいられない日々が続く様です。しかし、そんな中でも、激暑は去って涼しい秋が訪れ、いよいよ、これからが秋本番。

とは言え、先月、今までに無かった、怒り狂ったような台風の暴風雨、それに竜巻まで発生しての大被害(台風の竜巻なんて、今までに聞いた事が無い。)に、不安と、嘆きと、悲しみと…。しなやかな日本の気候も、これまでにない、優しさを失った異常な災害をもたらす事が多くなりました。何という諸行無情。神様仏様、どうか、これ以上私共を痛めつけないで下さい。せめて、季節が変わった今、そろそろ、穏やかで、静かな秋の日々をと願うばかりです。

しかし、そんな、不安と混乱した思いの中で、ふと、私の脳裏をよぎるのは、松尾芭蕉の「奥のほそ道」の書き出し、『月日は百代(はくたい)の過客(くゎかく)にして、行き交(か)ふ年も又旅人(たびびと)也(なり)』流れ行く時間も、時代も、人生も、全て漂泊の旅の様なものと…。

そういえば、芭蕉が漂泊の旅を始める前に、江戸・深川に転居して2年後、江戸の大火で芭蕉庵は類焼し、翌年、母の死…そんな悲しい体験などがあって「諸行無情の思いを抱き、形ある物は決して永遠ではないが、この世には「不易(いつの時代にも変わらぬ物)」と、「流行(時代と共に変化する物)」があり、それは別の物ではなく、表裏一体であるはずである…という思いで、不易流行の俳諧の新しい境地を開いて行きました。その後、41歳の「野ざらし紀行」に始まり~元禄2年(1689年)3月27日(太陽暦5月16日)に、「おくのほそ道」へ旅立ちました。

   行く春や鳥啼き魚の目は泪(なみだ)   芭蕉

その後、600里(2400キロ)150日の長い旅を続け、「おくのほそ道」の結びの地は、美濃(岐阜県)大垣でした。芭蕉は、門弟、知人に迎えられて、旅の荷を下ろしたのも束の間、2週間余り後には、「伊勢神宮の遷宮拝まんとして…」と、皆に送られて揖斐(いび)川を下り、また旅立ちました。別れの句は、

   蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ   芭蕉

「おくのほそ道」は、「行く春や」で始まり、「行く秋ぞ」で結ばれ、旅の終わりは、新たな旅の始まり…命ある限り人生は旅…と言う芭蕉のメッセージが心に沁みます。

話は、それこそ無情ですが、今、白髪高齢者の私にも、輝く青春時代がありました。そんな若い頃、俳句や絵などを嗜む趣味人が立ち寄る居酒屋で、俳句を「たし飲む?」いや、「たしなむ」先輩の酒友が、感動話を聞いた時言っていた常套句を思い出します。 「いや~泣かせますの~。酒の涙がしみますわい…。」 芭蕉は、「おくのほそ道」ですが、私共、凡人、市井の民は「のほそ道?」で、酒は「たし飲む?」ものでした。そんな私の若き日の一句がありました。

   何とかなる酒の愉(たの)しき夜長かな   ひろし

お酒と酒友と…よき社会勉強をさせて頂きました。 そういえば、その居酒屋のマッチ箱には「大きな悲しみかみしめて、小さな喜び育てよう」と書いてありました。これは、お店のお客さんに尊敬され、慕われた、知恵者の学長さん(俳号は大学)が考えられた人生支援の身に沁みる名言・金言であったのを思い出します。

話は変わりますが、今年は、広島では、浅野長晟(ながあきら)広島入城400年にあたり、関連の歴史イベントが沢山企画され、私も歴女(れきじょ)ならぬ、歴おじさん?になって、公民館主催の歴史講座に参加もしていますが、左右の耳が遠くなっているのに加え、風通しが良過ぎてすぐに忘れてしまいます…。

広島は、原爆で中心部が壊滅しましたが、今でも、毛利・福島・浅野時代の歴史を偲ばせる遺産・遺跡がまだまだ残っています。身近な、神社・仏閣を訪ねられても、歴史と文化にふれる事が出来、広島再発見の喜びがあるのではないかと思います。

その中の、ほんの一つが、本通りを中心に東西に続く道は、福島正則の時代に、広島城の南に作られた広島城下のメインストリートである西国街道です。そこにも、歴史の痕跡が今でも残っておりますし、猿猴川、京橋川、元安川、本川などを巡っても歴史の面影を偲ぶ事ができます。 おん身ご大切になさって、文化・芸術の秋を…、おっと、酒も、食も…元気にお過ごし下さい。

   破芭蕉(やればしょう)ここも宇宙のひとところ   ひろし
   秋風や末路晩年(まつろばんねん)日々覚悟     ひろし

煙石 博

2019年9月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien