2020年12月1日   出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…

2020年12月1日   出汐町、比治山、そして旧陸軍被服支廠の事など…

 11月26日(木)に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」に多くの方のご参加ありがとうございました。コロナ対策で一席ずつ空けてのソーシャルディスタンスで、会場は、ほぼ満席の80人近くの皆さんで埋まりました。

 久保先生は世界の有罪率等の、例を挙げ、とても分かりやすく、問題点を指摘されました。「…起訴されると、99.9%有罪と言う数字は、考えても恐ろしい事…この数字は、たくさんの冤罪被害者を生み出しているという事でもありましょうか、日本の警察・司法のあり方は、国際的にもその問題点を指摘されていて…」等と言う様なお話をされました。

 先生のお話の後、私にも少し話をと言う段取りでしたので、お礼の気持ちなどを話そうと思っておりましたら、本番では、思っていたより、かなり早い時間にマイクを受ける事になって、本当のところ、内心少し慌てましたが、あれでもと思って、持参していた冤罪関係の本、数冊を、とっさに手にして登壇しました。

 まず、元厚生労働省の冤罪被害者、村木厚子さんの「私は負けない」の中より、「あってはならないフロッピー改ざんの事や、事実と異なる供述調書が沢山作られていた問題…。罪を認めない人が、いつまでも身柄拘束されるのは問題であり、それが、本人と家族の生活を、どれだけ破壊する事なのか、検察と裁判所は、本当に理解しているんでしょうか。」等を紹介しました。

 次は、弘中惇一郎先生の著書「無罪請負人」から、シャラップ発言を紹介。2013年5月、スイスのジュネーブで開かれた国連拷問禁止委員会の席上、委員が、「日本の刑事司法は中世に近い。」と言って「取り調べに弁護人の立ち合いがないと、誤った自白が行なわれるのではないか。自白に頼りすぎる取り調べは、中世のなごりだ。日本の刑事手続きを国際水準に合わせる必要がある。」と指摘すると、日本の人権人道大使は、「この分野で日本は世界一の人権先進国だ。」と反論した。これに、会場から苦笑、失笑が漏れると、日本の大使は、「何がおかしい。笑うな。シャラップ‼シャラップ‼」と叫んで、その場にいた参加者をあきれさせた。(このシーンは、私もテレビニュースで見て、驚きました。)更に、委員会は、日本への勧告として代用監獄(留置場)、自白強要、独房への監禁、死刑などの問題をあげた。…日本の刑事司法の現実は、前近代的であり、国際基準に照らしても相当遅れている事は確かである…。」を紹介。

 そして、日本で多くの冤罪事件に取り組んでこられた、弁護士の今村核先生の「冤罪と裁判・冤罪弁護士が語る真実」より、有罪率99.9%について「職業裁判官にとって、被告人に判決を言い渡すことは日常のことであり、週のうち2日ぐらいは、判決を言い渡している。そのほとんどは有罪判決であり、最高裁が毎年発表する司法統計年表によれば、全起訴人員のうち、有罪判決を言い渡される被告人は約99.9%である。無罪は1000人にひとりだ。総じて言えば、職業裁判官は、『有罪への流れ作業』に慣れ親しんでおり、検察官の起訴内容を、検察官が請求した証拠により、そのまま認定するのが彼らの日常となっている。」他、問題ある裁きの実態などの所を紹介しました。

 そして、久保先生へのお礼と、私が、冤罪被害者になって、絶望と孤独の中にある時、私の無実を信じて、「ひとごとではない。あすは我が身。許されない!」と声をかけて下さり、支援して下さった多くの皆様にお礼を申し上げました。

 久保先生が、最後の所で、日本の人質司法はよくないので、「起訴前保釈制度」を作ってほしい事と、「弁護人の取り調べ立会制度」を認めてほしい事を話されました。
 私も冤罪を生みださない為に役立つ制度だと思います。

 思いますに、私が、この冤罪を通して勉強させて頂いた事の一つに、薄れて行く、人と人との絆がいかに大切なものであるかと言う事を身をもって知りました。

    悲を耐へて小さき仕合わせ野紺菊のこんぎく      ひろし

    人肌の恋し鳩居のを開く         ひろし

 ところで、前号で、広島県警南警察署が南区出汐町(広島県立広島工業高等学校、広島県立広島皆実高等学校の入り口あたり)に引っ越すらしいと言う事で、南署での四畳半独房日記を書き始めましたが、移転先に当たる出汐町の警察官舎の、解体作業が思っていたより早く、既に終わって更地にされましたので、独房日記の続きは、次号にして、今日は、南警察署が引っ越す出汐町あたりの事について思いが昂り、書かせて頂きます。

 出汐町は、今は市街地の真っ只中にある町となっていますが、出る汐と書いて、出汐と言う町名にされたのは…、これは広島の旧市街地のほとんどが、干拓に次ぐ干拓で、歴史は遡って、毛利、福島正則、特に江戸時代250年の長い浅野藩時代には、大規模な海の干拓が進められ、更に明治には、宇品地域の広大な埋め立てによって出来たと言う歴史があります。

 そもそも、出汐町のすぐそばにある比治山も、古来より、広島湾内にある島の1つでしたが、江戸時代中頃までには埋め立てられ、広島城下と陸続きになったものです。
 話は少し横道に入りますが、その比治山の南麓では、昭和7年(1932年)、軍の連隊施設の工事中に、縄文時代の石器、土器、貝塚が出土して発掘調査が行われたと言う記録が残っており、戦後、昭和25年(1950年)比治山貝塚として、県の史跡に指定されて世に知られる処となりました。実は、私も若いころ、居酒屋の広島の地雀、物知りのお年寄り達から、「比治山の周囲には、他にも何ケ所かの貝塚らしきものがあった」と聞いております。また、この比治山は、広島城から見ると、虎が臥(ふ)せている様にも見えるので、臥虎山(がこざん)と親しみを込めて呼ばれてもおりました。
 (※私の作詞、佐伯金次郎作曲、新宅未奈子唄の「比治山慕情」を、カラオケで、聴くだけでも、かけて頂くと、わずかですが、私に、数円の印税が入ります。)

 話は本筋に戻ります。つまり、比治山は、江戸時代半ば迄には、広島城下と陸続きになったものですが、埋め立てられても、その当時も、すぐそばには、京橋川が広島湾へと流れ込んでいたと思います。今の進徳女子高校や県立広島工業高校、県立広島皆実高校あたりは、川に向けても、寄す潮、引く潮が身近な地であったので、それにちなんで、出汐町と言う地名が付けられたのだろうと思いますが、語源を見ると、潮は、しおの干満で、本来は朝方に起こる干満の変化、また、高くなる方のしお。朝潮。満ち潮。
 対して汐は、しおの干満で、本来は夕方に起こる変化、また、低くなる方のしお。引き汐。夕汐。例→汐干狩り。月の出汐。出汐(いでしお、でしお)は、月の出と共にさしてくる、満ちてくる汐。おもんばかってみると、夕日が美しく沈む、有難い西方浄土の方角が望める位置にある、昔、海だったところにちなんで、出汐…色々、その昔がしのばれる、町の名です。

 広島県警南警察署は、その出汐町に移転するのですが、そのすぐ南側には、近年、被爆建物として保存の声が高まっている、赤レンガの旧陸軍被服支廠が、4棟ほど残っております。今でこそ、宅地に囲まれておりますが、私が子供のころは、(半世紀以上も昔の話になりますが…)4棟残された建物の南側は、見渡す限りの蓮田(はすだ、レンコン田)で、建物の西側も、蓮田か畑ではなかったかと思います。あの辺りは、人家の無い寂しい所で、私共、子供の遊び場でもありましたが、西側の3棟のうち、建物と建物の間の広場に、結構大きくて深そうな防火用水だったのか?水槽があって、そこで、魚釣りもしたり、(ヒブナか、鯉が育っているらしくて、私は釣り上げる事はありませんでしたが、なにしろ、終戦後の、物も無い、お金も無い、子供もひもじい時代でしたから、それを釣り上げ、どこかへ売りに行って、小遣い銭にしていた年長坊主もいたと聞いていました。)

 あの辺りで日暮れまで遊んだりもしていましたが、その事を親に話したら、強い口調で、「あの辺りは、ひとけが無い所だから、子供が遊んではいけない。」と、諭されました。のちに、安全上の問題と衛生面の事からでしょう、取り壊されて、埋められました。

 話は、戻りますが、私は、随分前から、あの建造物は、被爆建物でもありますが、それ以前の歴史を語る歴史的建造物として保存する価値があるのではないかと思っていましたし、機会ある毎に、人にも、その事を話しておりました。あの赤レンガ造りの建物群は、大正2年(1913年)に完成した物で、現存する最も古い鉄筋コンクリート造りの建物として評価されていい建築物ではないかと思っています。

 明治以降の日本は、欧米の文明を取り入れて近代化を進めた時代であり、レンガは、文明開化を象徴する物として扱われ、その時代を物語るのが、この洋風の、赤レンガ造りの建造物であるとも思います。そもそも、赤レンガ1つをとっても、明治の初めは、日本で製造する技術はなく、イギリスからの輸入に頼っていた様ですが、日本人も、その技術を習得して、国産レンガが作られる様になりました。国産レンガの産地のひとつに、蛸壺造りの技術があった広島の安芸津が全国に名を馳せました。被服支廠のレンガは純国産の一級品、安芸津産の物ではないか?と思いますが、近代化遺産としても、明治、大正、昭和の歴史を物語る歴史的建造物群でもあるので、保存する価値がある物だと思う訳です。

 最後に、県立広島皆実高校と県立広島工業高校の正門に続く、幅広い通学路の中ほどに、昔は3本だけ残されていましたが、今は、2本となった大きな楠が、堂々と枝葉を拡げています。この2本の楠は、実は、あそこには、被爆の前まで、あの辺りの新開地の守り神だったのでしょう、皆実神社、伊勢神宮の分祠があって、その参道にあったものの様です。残された2本の楠の大樹は、大正、戦前の昭和、そして被爆の惨状を目のあたりにした歴史の語り部でもあり、この地の戦後の復興を見守ってきた証人とも言えましょう。今は被爆樹の一つにもなっています。

 今年は被服支廠保存の声が高まりましたが、今年の夏の、私の拙句です。

    物言はぬ声八月の被服支廠    ひろし

 今年の冬が穏やかであってくれればと願います。

    十二月雑踏に我が孤独の灯    ひろし

 皆様におかれましても、お身体くれぐれもお大事になさって下さい。

                              煙石 博

2020年11月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien