2024.2.1 4日は立春10日は旧正月。浅春…。四畳半独房記・備忘録㉓「房での不自由」

2024.2.1 4日は立春10日は旧正月。浅春…。四畳半独房記・備忘録㉓「房での不自由」

 心新たに迎えた辰年でしたが、新年早々に能登半島地震、空港での大惨事…と、余りにも非情な出来事の連続で、新年気分は一気に吹き飛ばされて厳しい現実に向かう日々が続いて来た様です。

 そして、1月の24日と25日に列島を襲った強烈な寒波は、それまで割と暖かかった冬が一転、今シーズン最強寒波と大雪をもたらして大混乱…。異常気象が言われる中で、これから先、少しでも気候が穏やかであって欲しいと願うばかりです。
 蛇足ながら、暦を見て気がついたのですが、あの大雪があった1月24日、25日は、旧暦の暦では、1月24日が、旧暦12月14日。25日が旧暦12月15日…と言うと…連想しますのは、赤穂浪士の討入りがあったのが、元禄15年12月14日の夜。
この赤穂浪士の義士祭は、今の暦の12月14日に、東京高輪泉岳寺義士祭としるされていますが、これは、今の暦の、12月14日ではなく、明治以前の旧暦の12月14日、つまり、今年は、今の暦のあの大雪に見舞われた1月24日にあたっておりました。
 つまり、雪国でない地方で、積る程の雪が降るのは年が明けて、寒さ極まる1月半ば過ぎからで、忠臣蔵の舞台に似合うのは、この時期の寒さと、雪でしょう。

 忠臣蔵で思い出しますのは、三波春夫さんの「忠臣蔵・俵星玄蕃(たわらぼしげんば)」の、語り、名調子…。

一部記憶に残っているのは、
♪♪ときに元禄15年12月14日。江戸の夜風を震わせて、響くは、山鹿流儀(やまがりゅうぎ)の陣太鼓。しかも、ひと打ち、に打ち、さん流れ…。~耳を澄ませて太鼓を数え、お~まさしく赤穂浪士の討入りじゃ。助太刀(すけだち)するは、この時ぞ。…九尺の手槍を右の手に、切戸を開けて表にでれば、天は幽暗、地は凱凱(がいがい)たる白雪を蹴(け)立てて、行く手は松阪町。~一人の浪士が雪を蹴立てて、サック、サック、サック、サック、サック、サック。「先生!」「おう、そば屋か!」~。♪♪

 先だっては、泣かされた、大変な大雪だったのに、私の勝手な連想で、忠臣蔵・俵星玄蕃のセリフを持ち出して、申し訳ありません。若い頃、カラオケでよく唄っておりました。

 ところで、如月の2月は、4日が立春。10日は、旧暦の一月一日で、旧正月です。寒さは、まだまだ油断出来ませんが、夜明けも、わずかずつ早くなり、日暮れも遅くなり始めています。そして、よく観察して頂くと、晴れた日の日差しにも、わずかながら力が込もり始めていると思います。
 弥生3月へ向かって、春の兆しが、心を和ませてくれる月であります様に…。

     春近し千辛万苦(せんしんばんく)越へ行かむ     ひろし

改めて、四畳半独房日記・補足・備忘録㉓「房での不自由…」
(これは、私が体験した特異で嫌な記憶を、正しく記録に残しておきたいと言う思いから書き綴っています。)

 留置場の体験で、いきなり自由を奪われた苦痛を知りましたが、当時、房内で残したメモを見ると、<不自由な事>として、房の中には、机も無く、丸いトイレットペーパーひと巻き、毛布一枚だけしか与えられず、風呂あがりでも、タオルは持ち込めない(自殺防止の為らしい…)。また、昼も夜も、枕を与えられず、それも不自由だとメモしています。

 お茶は、出がらしの、味の無いものだったので、皆も、ほとんど、白湯(さゆ)を頼んで飲んでいましたが、白湯が意外にうまい、おいしいと言う事を知りました。
それと、私は、食後、必ず楊枝(ようじ)が要りますが、楊枝は与えられず、大変、難儀をしました。ただ、これは、刑事の、取り調べでは無い、取り調べと言うのは表向きで、実際は、異常な、自白を迫るだけのものでしたが、そんな取り調べの前に、刑事の「何か欲しいものがあるか?」と言う問いかけに、毎回「濃いお茶と楊枝が欲しい」と頼みましたら、優しげに、お茶と楊枝は与えてくれました。(そのあと、机を敲いたり、押したり、恐ろしい形相で、恫喝したりした時も…)
 また、房のトイレは、しゃがんでする昔のトイレで、夜9時から翌朝7時まで、筆記用具とメモ帳、メガネも取り上げられる事も不自由だと、メモに残してあります。

 とに角、それも、これも、盗っていないのに盗ったと言わせる、自白に追い込む為に…、作られているのが、留置場でしょう。私は、房のナンバーで「13号」と呼ばれました。

     鳥の来て揺れたる梅の影も香も     ひろし

煙石 博

2024年1月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien