2020.11.1 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)

2020年11月1日 「私の呼び名は13号」(冤罪被害を被った元厚労省の村木厚子さんも13号)

 前回のブログで、11月に、広島弁護士会主催の「市民法律講座」のパンフレット・参加申し込み書をご案内しましたが、その3回目の講座【11/26(木)18:00~19:30】で、私の最高裁逆転無罪を勝ちとって下さった、弁護士の久保豊年先生の「有罪率99.9%の壁~元アナウンサー最高裁逆転判決を素材に~」がある事をお知らせしました。これにつきましては、久保先生が、私の冤罪のケースを素材にお話されるという事のご報告と、お時間が許す方は、ご参加下されば…と言う思いで、パンフレットをご案内させて頂いたものでしたが、ブログをお読みになって「参加したいのですが、都合付かず申し訳ありません。」という丁寧なご返事を頂いた方もあり、余計な心のご負担をおかけし、申し訳ありませんでした。
 ところで、もう一つ前回のブログの最後に、「四畳半独房日記より」として、広島県警南警察署の留置場の(広島市南区丹那町)、私が入れられた独居房13号…の事について綴りましたが、この余白部分で、もう少し書かせて頂きます。

 さて、留置場は、入ってまず一番手前が1号、次が2号で、確か、3・4が無くて、13号、その隣が、雑居房の5号、6号、その奥が7号であったのか…そこには、上半身?入れ墨を入れた方が(入浴の時などで、チラと拝見しました。)入っていました。なにしろ、留置場内をじっくり確認して歩く訳にもいかず、しかも、私自身が大変な状態にある訳ですから、そんな事に気を留める余裕もありませんで…その様な部屋割ではなかったか…と思います。私が入れられたのは独房の13号でしたが、私より前に冤罪被害に遭われた元厚生労働省の村木厚子さんも、何故か、同じ13号だったと知りました。

 私の居た独房13号を、四畳半と表現しましたが、これは、一番奥の、タタミ1畳分のスペースの半畳分が、古典的な和式便所になっていて、残りの半畳分は、便所の鉄扉の開閉の為に必要なスペースで、板の間になっていました。その和式トイレの部分は、目の荒いセメントが塗られていて、ナメクジでも這って居そうな湿気の多い、薄気味悪い一角で、鉄格子の向こうの刑務官から私が見える様に、上半身部分はガラス張りで、その下は、下半身だけ隠れる程の壁になっていました。
 そのトイレ部分のこちらは、ビニル畳(ネチャネチャとする感じのもの)を横に3枚並べてある寝起きのスペースですが、鉄格子の出入り口の所は、タタミ一畳くらいのスペースがあって、その三分の一くらいが、食事や水などを差し入れる為の板張りになっていました。つまり、寝起きのスペースは、大雑把に長方形の薄暗い四畳半という感じでした。この、天井の高いコンクリート打ち抜きの様な冷たい鉄格子の部屋は、夜には、ゴーゴーと吹きぬけて行く風の音が聞こえ、不気味でもありました。ここは海の方から吹いてくる風の道…の様です。10月はそうでもなかったのですが、私の誕生日の11月2日頃には、夜が更けるとシンシンと冷えて、さらに不安が募りました。

 私は、広島生まれの広島育ち、この土地で生まれ育ったので、丹那たんなに南署が出来る前、その辺りから、風光明媚な遠浅の入り江の様な海が広がっていた事を知っています。
 そこは、私の子供の頃の遊び場でもありましたが、魚、海苔、かに、シャコ、わかめ、あさり等の豊かな漁場でもあり、のちに廃線となりましたが、国鉄(JR)宇品線ルートの途中にありました。

 広島駅の0番線ホームを発車した汽車は(SLが走り、後にガソリンカーも走って…)大洲、段原を抜け、出汐町の今の広大病院の前を通り、宇品へ向かっていましたが、今の広大病院がある所は、戦前、軍の兵器支廠があった所で、終戦後は、長らく広島県庁が移転して来ていました。県庁の入口に、木造の結構大きな上大河(かみおおこう)駅があり、その駅前には、広電のボンネットバスが、くるりと回ってやって来るハイカラなロータリーがあって、暮らしの匂いのする賑やかな町がありました。
 県庁が現在の基町に移転した後は、広大病院が出来て今に至っています。

 宇品線は、その上大河(かみおおこう)駅から、さらに南の、私の住んで居る町の下大河(しもおおこう)駅、そして、小さな無人駅の丹那…終点の宇品へと延びていました。

 この丹那沖の豊かな干潟は、釣り場でもあり、春には、宇品線に乗って潮干狩りにやって来る人で賑わい、夏には海水浴も出来た所です。
 その後、丹那橋(たんなばし)から遥か沖までの入り江は埋め立てられ、マツダの宇品工場が出来ますが、その扇形の広い埋め立て地の一丁目一番地に当たる様な所に、広島県警南警察署が出来ました。そこは埋め立て地の丹那橋のたもと辺りになります。

 そんな訳で、私の子供の頃の、愉しく青い夢を育んだ思い出のエリアで、よもや、晩年になって、こんな目に遭わされ様とは…悔しくも、切ない涙が…溢れます。無罪を勝ち取った後、今でも、南警察署に近づくのも嫌で、大変な苦痛を覚え、あの留置場での28日間の忌まわしい記憶を拭い去る事は出来ません。
 実は、以前、新聞で読みましたが、その南警察署が、数年後、南区出汐町の広島県立工業高校そばの、県警官舎跡に移転するそうで、既に官舎の取り壊しが進められています。…次回へ続く…。

■■以下は、留置場で書いた覚え書き、日記より■■
2012.10.16(火)、今日は、AM10時より、ポリグラフ検査(嘘発見器の様なもの)を受けた。検査中、少し開けた窓から秋風が吹き込み、しばらく外の空気を吸う事が出来て、ちょっぴり、ほっとする。秋晴れ。私は、お金を盗って居ないので、ポリグラフ検査に異常が出る訳は無いと…自信を持っている。担当官から「結果は、取り調べが全て終わるまで明らかに出来ない。」と言われた。(今思えば、これも、とても妙な話ではあります。)

    秋の空うそ偽りの無き高さ   ひろし
     10.16(火)の夜に記した句 これは、近作の拙句ですが…

    青春の日々は遥かな青林檎   ひろし

 寒さに向かいますが、くれぐれもお身体ご大切になさって下さい。
                                         煙石 博

2020年10月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : masayukien